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第二章「最期の力」

01.

「全く、俺の仕事増やしやがって…封印種系は傷が癒せないし」

 

新しい包帯を片手に溜め息をついたのは青みのかかった銀の髪と端正な男前な顔立ちの青年 刹夜(せつや)。

まだ20代前半の様な顔立ちをしているがその真紅の瞳は彼が不老長寿の血脈を持っている事を物語っている。

【夜一族】と呼ばれる不老不死と呼ばれる一族は真紅の瞳を宿し美しい姿をして世界の秩序を守る番人。

不老不死といえど彼らも戦いなどの傷を負えば死に至る事もあるのだ。

なので実際は不老長寿と彼らは表現する。

刹夜は夜一族の医師で主に怪我を負った者の面倒を診る。

【夜一族】は封印種(ふういんしゅ)、覚醒種(かくせいしゅ)、純血種(じゅんけつしゅ)の三種が基本だ。

しかし、三種の中で封印種は傷を負った覚醒種、純血種を己の血で癒やす事が出来るが封印種自身は負った傷を自分で癒やす事も他の封印種から癒やされる事も出来ない。

だから刹夜の様な医師が必要になる。

 

「エルトレス…大丈夫か?」

 

世界の秩序を守ろうとする人外の一族の彼らに与えられた一軒家。

エルトレスと呼ばれた少女の部屋で長い黒髪に端正な顔立ちの青年で瞳は刹夜と同じ真紅を持つ彼は心配そうに誰かの手を握っている。

彼の名前は黒夜。

不老長寿の人外の一族【夜一族】の青年で美しい中性的な姿をしている。

 

「…大丈夫、師匠が傍にいてくれるから」

 

部屋の白いベッドの上で寝かされたエルトレスと呼ばれた少女はニコリと柔らかな笑顔を浮かべた。

 

「…あのな、エルトレス。俺があの時来なかったら死んでたんだぞ」

 

頭を掻きながら呆れ顔の刹夜が溜め息と共に呟いた。

バカップルに何を言っても無駄かー、と刹夜は新しい包帯を部屋の隅にあるテーブルの上に置いてさっさと部屋から退散する事にし部屋の扉を静かに閉める。


02.

パタン、と部屋の扉が閉められた音と共に黒夜はベッドに手をついて身を乗り出しエルトレスの額に口づけを落とす。

「…先生、良かった…」

 

エルトレスは安心した様に微笑み黒夜の頭を手のひらで撫でる。

黒夜は愛しそうに目を細めエルトレスの首筋にチュッと軽くキスをした。

 

「ありがとう、エル」

 

暗い深い闇の底で見つけた一筋の光の様にエルトレスの声は黒夜の心を照らす。

 

『俺は…貴方の傍に帰ります。…どんなに離れても』

 

あの時の言葉が黒夜を暗い闇の底から救い出した。

 

「はい」

 

エルトレスはフワリと優しい笑顔を浮かべて黒夜の首に腕を回し黒夜に抱きつく。

黒夜も片手をベッドに手をつきながらもう片手をエルトレスの腰に回し抱き締める。

 

「…エルトレス…」

 

もしも、エルトレスと恋人になれたら幸せなのだろう。

師匠と弟子…立場に縛られ未だに想いを黒夜は彼女に伝えられない。

それにエルトレスの本当の父親は―‥。


03.

「……貴方は知ってるのだろう?エルの本当の父親」

 

エルトレスと黒夜のいる部屋とは違う一階のリビングのソファーに座った包帯だらけの朔夜(さくや)は顔を俯かせ自分の包帯を変えている刹夜を睨むように見た。

刹夜は手際良く朔夜の包帯を古い物から新しい物に変える。

 

「…それを知ってどうする」

 

エルトレスは自分の本当の父親を知っている様子だった。

しかし、エルトレスが言わないのなら無理な詮索は彼女を傷つける。

それにその話に関わって良いのは昔から黒夜だけだ。

刹夜はエルトレスの母親と幼なじみで『彼女』が誰を愛し契りを交わす決断をしたのか知っていた。

例えこの場にいる者がエルトレスと親しくともエルトレスの本当の父親の話は禁断だ。

何せその『本当の父親』はエルトレスが自分の子供だと知らない上に『彼女』の子供だとも知らない。

しかも『本当の父親』には妻もいて子供もいる。

それは決して他人に軽々言って良い事では無い。

刹夜にとって親友の『彼女』の守りたい秘密は絶対に守りたいのだ。

 

「……いや、何でもない」

 

刹夜は知っていても簡単に喋らない。

朔夜はそれをよく知っているからそれ以上、言うのはやめた。

あまり詮索してエルトレスを傷つけたくない…それにどうせ聞くなら本人の口から聞きたい。

 

「他の事なら答えてやっから」

 

刹夜はそう言って柔らかい笑みを浮かべて朔夜の頭を撫でた。

その大きな手のひらは力強く頼もしさがあって朔夜は思わず笑みを零した。


04.

「…黒夜さんのあの症状は?」

 

エルトレスの出自以外なら答えてやると刹夜が言ったので朔夜は今一番引っかかっていた疑問を口にした。

朔夜は瑠璃と再会した夜、一族の刺客に襲われ背後から黒夜の刀に貫かれた。

瑠璃と天河を逃がし朔夜は瀕死の重傷を負いながらも懸命に戦った。

しかし、黒夜は容赦なく朔夜を斬りエルトレスも斬った。

無表情でまるで感情を封じられた人形のように黒夜は朔夜を斬ったが愛するエルトレスの姿を見た途端に彼の様子が変わり朔夜の意識はそこで途絶えている。

 

「……古い術だ。禁忌とされ長い時を越えたが…まだ使う奴がいたらしい」

 

刹夜はポスリと小さな音をたてて朔夜と向かい合わせのソファーに腰をおろす。

刹夜は医者として優秀で知識も豊富だ。

 

「麻酔にも使う草を大量に使い相手に強い幻覚を見せ、更に血を飲ませる。そうすれば血を触媒にして相手を意のままに支配出来るっていう迷惑な術だよ」

 

使用者に強い幻覚を見せる薬草と夜一族の強い血の力。

封印種が癒やしの血を持つが他の種の血は効力が違う。

血を触媒にする術もある程だ。

 

「黒夜さんは大丈夫なのか?」

 

強い麻薬に血の力。

そんな術をかけられて黒夜は大丈夫なのか心配し朔夜は刹夜に聞く。

 

「麻薬はエルトレスの血で浄化したからあとは完全に麻薬と血の効力が切れるまで安静が必要だな。」

 

刹夜は「やっと一段落ついたぜ」と小さくため息をつく。

ここ5日ほどエルトレスや朔夜、黒夜の治療にあたってほとんど刹夜は寝てないらしい。

 

「治療してくれてありがとう。」

 

疲労の見える刹夜に朔夜は俯いて感謝の言葉を紡ぐ。

しかし、朔夜の今の心中は複雑だった。

まだ朔夜が生まれたばかりの頃、刹夜は朔夜と朔夜の母親を捨て夜一族から姿を消した男だ。

正直、朔夜は逢いたくなかった。

 

「治療するのは医者の仕事だからな」

 

刹夜は決して朔夜との繋がりを望まない。

それを痛いほど知っている朔夜は刹夜に逢いたいなど考えたくもなかった。

 

朔夜にとって『父親』はあまりに遠い存在なのだから。


05.

『刹…どうして私と神夜を結婚させたの?』

『律(りつ)、すまない』

『………お腹の中の子は貴方の子供なのよ』

『…解っている。だが…』

『もう…いいわ、私一人で育てる。この子は神夜も貴方の手も借りない』

 

刹夜には愛している人がいる。

喧嘩ばかりしていたが彼女とそのお腹の子供は今でも愛しい。

しかし、刹夜は彼女との間に出来た子供と彼女を捨てた。

その後、刹夜は一族を抜け出し旅に出たが彼女は神夜と結婚してもたった一人離れの家で子供を育てていた。

刹夜がその話を聞いたのは親友の翠夜(すいや)から。

翠夜は律と刹夜の間に産まれた子供が『真性封印種』に覚醒してた事も刹夜に知らせてくれた。

『真性封印種』に対する夜一族は冷たく皆が『忌み子』と囁く。

それでも律は自分の子供を苦労しながらも育てていたのだ。

出来るなら傍にいてやりたい。

律も子供も愛しい。

二人が刹夜の世界の全てだから。

 

『律とお前の子供、名前は宵夜というらしい』

 

金の髪が愛らしい子だよ、と翠夜が言っていたが32年ぶりに逢った子供はとても凛々しく成長していた。


06.

「久しぶりの再会はどうでしたか?」

 

リビングのソファーの上で眠る朔夜を残し刹夜は二階のベランダで煙草を吸っていた。

そこに2つのコーヒーカップを両手に一つずつ持った静輝が現れ刹夜は静輝の紡いだ言葉に苦しい笑みを浮かべる。

 

「どうもこうも無い、相変わらず憎まれてるよ。俺は」

 

しかし、仕方ない反応だろう。

刹夜はずっと連絡も寄越さず我が子と妻を放って置いたのだから。

頭で解っていても実際、我が子の瞳の中に自分への憎しみが見えたのは刹夜自身、落ち込んだ。

妻は相当苦労して我が子を育てたのだろう。

 

「そりゃあ…長年、母親と自分を放って置いた父親に再会したら誰だって憎しみを抱きますよ」

 

遠慮なく静輝は刹夜に言い放つ。

静輝はずっとあの母子の苦労を身近で見て来たのだ。

どんな理由があれ二人を放って置いた刹夜に静輝は腹が立っていたのもある。

静輝は今現在、朔夜の置かれている立場を刹夜に語った。

 

「朔夜は今、先代の長『神夜』様の息子と言う危険な立場にいるんです。神夜様の実子で無いと発覚したら……」

 

最悪、母子は死罪で裁かれる。

【夜一族】にとって一族を統べる長は絶対だ。

例え、神夜が長を引退していたとしても『先代の長を騙した』として朔夜も朔夜の母親も危険な状態になる。

 

「…最悪な結果になんてさせねえよ。俺が二人を守る、命に換えてもな」

 

煙草を加え刹夜は決意がこもった瞳で夜空を見つめた。

今まで守ってやれなかった分、これから守っていきたい。

愛する家族をこの手で…。

そんな刹夜の決意に刹夜の弟子であり朔夜の幼なじみである静輝はようやく安堵する事が出来た。


07.

刹夜と静輝がベランダで話をしている頃、リビングには黒夜、エルトレス、リースラート、神音が集まっていた。

朔夜は傷が痛むのかソファーで眠っている。

 

「…まさか癒音(ゆのん)に子がいたとは…」

 

黒夜は白銀の髪の少年『神音』を見つめポツリと呟く。

癒音は穏やかな優しい心の持ち主で少々抜けている所もあったが笑うと花のように可愛らしい笑顔が印象的な少女だった。

その癒音が人知れず我が子を産み人界で育んでいたのか、と。

 

「母さんの事知っているのですか?」

 

神音は黒夜の顔をじっ、と見つめて黒夜の答えを待つ。

『夜一族』としての母親の話を神音は聞いた事が無かった。

神音にとって癒音は最後の肉親なのだ。

 

「…癒音はいつも翠の傍にいたからな。よく知っている」

 

黒夜は穏やかな笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。

その中にあった『翠』という単語にエルトレスがピクリと手が動き反応した。

『翠』とはエルトレスの実の母の名だ。

『翡翠』『翡翠の君』『翠夜』と呼ばれていた母だが親しい者には『翠』と呼ばせていたらしい。

 

「…母はやはり夜一族だったのですね」

 

神音はポツリと呟く。

母は死ぬ直前、神音の体内に僅かの血を入れた。

それは『癒音の血』で神音という人格を作るきっかけになった触媒。

母親は我が子を守りたいと願い『神音』を作り上げ『神音』は『悠木』という表の人格を守る為だけに存在していた筈なのに。

癒音の声は…神音の考えていた意味とは違うようだ。

 

『それはきっとどちらも選べる様にしたかったからだよ』

 

神音はやっと心から笑える気がした。

癒音の願いが少し解った気がする。

 

―神音、私の大切な人を

守って―‥

 


08.

『リース』

 

愛しい人がずっと名前を呼んでいる。

繰り返し、繰り返し。

何度も…。

あの口づけは『最期のキス』。

永遠の別れ、二度と逢わない宿命。

でも、いつだって守りたいと…ひっそりと愛したいと願う。

この命が続く限り。

 

「…リースラート、大丈夫?」

 

そう言って心配そうに顔を覗き込んで来たのはエルトレス。

リースラートはなるべく悟られないように無理に笑顔を作りエルトレスに笑う。

 

(未だ残る未練がエルトレス達の足枷にならないように…)

 

リースラートには今、戦う力が無い。

寿命だけは神戒種の不老不死のまま。

『力』は彼を救う為に…。

 

「…辛かったら言ってね」

 

エルトレスはぎゅっとリースラートの手を握り締める。

その温もりが伝わって来てリースラートは泣きたくなった。

張りつめていた想いが『ここを開けて』と訴えているから。

 

「…ありがとう…エル…」

 

リースラートが最愛の人を救う為の神戒種としての力は既に彼から離れ始めている。

力によって抑えられ逸らされた彼を蝕む呪いは間違いなく徐々に効力が増しており彼は記憶を取り戻し始めて…。

呪いが再び彼を蝕み始めれば彼の命はもう……。


09.

暗い森に囲まれた夜一族の里。

少し前まで日が暖かく差していたいたのに今の夜一族は薄暗い不気味な一族だ。

 

(…神も新世界も…創らなくていいのに)

 

暖かい日差しが差し込み、桜の花びらが雪のように舞う。

優しい笑い声と子ども達の駆ける足音。

充分、理想郷だった。

…なのに変わってしまったのだ。

暖かい日差しは薄暗い雲に覆われ、優しい笑い声も子ども達の駆ける足音も聞こえない。

そして何より、自分の傍にあの子がいないのはやはり心に虚無感を生む。

自分が手に掛けた女性の子供。

知的でとても優秀に育ち反抗期すら愛おしい最愛の我が子。

 

「光夜様、白夜様がお呼びです。」

 

嗚呼、とうとう来てしまったか。

愛おしい我が子を『処刑』しろという命令が…。

 

静輝……

 

「里抜けは重罪…子の罪は親の責として償え。光夜殿」

 

白銀の長い髪がサラリと流れ美しい金の瞳は王の証。

誰一人として、この一族の長には逆らえない。

光夜とてそれは例外では無いのだ。

 

(弟君が行方不明になってから白夜様はお心を惑わされた…)

 

今の光夜のように。

一族を束ねる長の白夜には弟君の宵夜は錐夜と静輝がリースラートを連れ里を抜け出した時に行方不明となっている。

錐夜に連れ去られたのか…安否は未だ確認が取れない。

それに刺客として出向いた黒夜も安否は不明だ。

 

「…黒夜殿殺害容疑、里抜けの罪によって…静輝並びに錐夜の処刑を命ず、光夜」

 

逆らう事は許されない。

光夜は愛用の武器である鎌の柄を握り締めて白夜に頭を下げる。

 

「この命に換えましても」

 

愛しい我が子よ

 

生きたくば父を越えろ。

共に殉ずるならば…

 

一緒に逝こう。

 

愛しいお前の罪は

 

私の罪だ。

 

運命の歯車が再び巡り出す。

 


10.

「これが亀裂?」

 

神音に案内されエルトレスとリースラートはこの地域を柱にし世界を蝕む亀裂の場所へと赴いた。

暗く深い闇の穴は異界とこの世界に入った亀裂。

オオオォォ…と闇の穴から聞こえる声にエルトレスは哀しげな表情を浮かべた。

この亀裂が魔神を生み出し人々に苦しみを与える。

 

「まさか、学校にあるなんて」

 

信じられない、とリースラートは驚愕に目を見開く。

神音が普段、真中 悠木(まなか ひさぎ)として通っているこの学校全体に闇の亀裂は入っていたのだ。

三人は夜で誰もいない学校のグラウンドに立ち学校を見つめる。

 

「……しかも術者が結界を張っているから俺一人では亀裂に辿り着くことさえ出来ない」

 

人格分離がリミッター(制御)となっている神音には魔神を倒すのが精一杯。

術者が何重にも張り巡らした結界をかいくぐって亀裂へ辿り着く事は困難に等しい。

 

「…この結界は術者とまだ繋がっている。もし、結界を壊せば術者にも…」

 

エルトレスは結界に手を添えた。

バチィッ!と結界はエルトレスの手に電気を発し燃え焼こうとするがエルトレスは寸前に防御術を張った為に軽い火傷で済む。

そしてエルトレスは結界の効力を悟り暗い表情を見せた。

恐らくこの結界を無理矢理壊せば術者の命は無い。

術者の命を救う事を考えれば術者に結界を解かせるしか無いのだ。

 

「その結界を張ったのは初恋の人だ」

 

神音が目を伏せ呟いた言葉は余りにも残酷だ。

リースラートとエルトレスは目を見開き神音を見つめると神音は泣きそうな表情で真っ直ぐ学校の校舎を見据えている。

 

「名前は珠皇(すおう)、陰陽師だ」

 

もしも、結界を無理矢理壊せば…神音の初恋の人の命を奪う事になるのだ。


11.

「なる程…術者の結界か」

 

神音、エルトレス、リースラートは塚本さんが用意した自宅へ戻り黒夜に相談した。

広いリビングのソファーには丁度、塚本さんも腰をおろしている。

黒夜は眉間に眉を寄せて難しそうに表情を険しくし思考を巡らす。

 

「まさか、TH.L(Top Hunter.L)機関のCross Nine9(クロスナイン)の誰かの力…?!」

 

ガタンと机を叩き立ち上がった塚本さんが酷く焦った表情を浮かべる。

『TH.L機関』『クロスナイン』という単語に世間に疎いエルトレス、神音は首を傾げた。

 

「TH.L機関というのはな、通称トップハンター.L機関と呼ばれ、政府が密かに作った魔神狩り専門の能力が集まった機関だ。こんなご時世、一般市民を守るには特異な能力者がいるのだよ。」

 

カップに入ったブラックコーヒーを飲み干し一から刹夜が説明をし始める。

 

「しかし、何故魔神狩り専門のTH.L機関が魔神を生む亀裂の守護をしているのでしょうか?」

 

刹夜のカップにブラックコーヒーを注いで静輝が呟く。

確かに魔神狩りを生業としている政府隠密機関が魔神を産む亀裂に守護結界など張っているのか…。

 

「………月夜だろうな。」

 

黒夜が紡いだ名前にエルトレスはビクリと体を揺らして反応した。

 

『月夜』

 

それは黒夜に術をかけ操り黒夜を苦しめた存在の名前だ。


12.

「私には神(しん)がいればそれでいい…」

 

黒夜が帰って来ずともこの腕に愛しい人を閉じ込めていられるなら。

きっと幾千の骸を踏み台にしそこに立つだろう。

銀の月のように美しい色をした髪と真紅の瞳。

美しい顔立ちは整い過ぎて恐怖すら感じる。

彼の名前は月夜(げつや)。

 

(…早く…錐夜…もう…自我が…)

 

そして、月夜に背後を抱きすくめられ虚ろな瞳で視界に何も映すことが出来ないのは神夜(しんや)。

途切れ途切れに視界に景色は映るが最早神夜の意識は認識する事が出来ない。

 

(翠夜…………!)

 

神夜はかろうじて片手の指を動かす。

想いを込めて動いた指に神力を込めた。

今頃、神夜の部屋に隠された翡翠のペンダントは神夜の神力であるべき場所へと戻る筈だ。

神夜は瞳を閉じる。

 

『やっと月夜様のお傍にいられる』

 

そう、神夜の中にいるもう一人の神夜は笑った。

 

(月夜よりも翠夜の傍が一番良い)

 

神夜の意識はそこで閉ざされた。

もう、逢いたい人に逢うことも触れることすら叶わない。

自分が長い間、精神の深い場所で閉じ込めていたもう一人の自分はきっと神夜の愛する人を傷つけるのだから。


13.

噂話や世間話をして学校の教室で騒ぎあう生徒達。

神音は真中 悠木(まなか ひさぎ)という女の子として学校に登校していた。

夜一族の自覚と微かな記憶を取り戻した悠木は別人格の『神音』の反対を押し切って学校に張られた結界を解きに。

学校の外には何時でも悠木を助けられるように錐夜が待機しており悠木の危険には問答無用で神音が出てくるようになっている。

 

「…珠皇(すおう)、話があるの」

 

悠木は隣の席に座る珠皇にそう言うと珠皇は僅かに首を傾げる。

後ろで一つに束ねられた漆黒の髪に整った顔立ちの珠皇は悠木にとっては片想いの相手。

 

「教室では言えない事か?」

 

珠皇がそう聞くと悠木は静かに頷いた。

陰陽師一族の出である珠皇は独特の空気を纏っている。

近寄りがたい冷たい空気を。

 

「ごめんなさい、珠皇」

 

悠木がそう言って肩を落とすとポンポンと珠皇は悠木の頭を優しく叩く。

悠木がそれに気がつき顔を上げれば「気にするな」と珠皇が優しく笑ってくれた。

珠皇に応えようと悠木も笑ったが上手く笑えたかは解らない。

 

(ごめんなさい、珠皇。私…私ね)

 

人間では無いとは決して言えない。

珠皇は人外を酷く嫌っているのを悠木はよく知っていたから尚更、本当の事は言えないのだ。

自分が不老長寿の夜一族の血を受け継いでいるとは、口が裂けても言えない。

珠皇と共に教室を出て悠木はギュッと力強く拳を握り締めた。


14.

珠皇を連れて悠木は屋上に来ていた。

珠皇が張った結界に守れた魔神が産まれる亀裂。

亀裂を封じねば沢山の人が苦しむ。

魔神とバランスが崩れた世界の陰陽。

陰が世界を蝕み陽の力が消えつつある。

そして、そこにある夜一族の『新世界』とは―‥。

 

(止めなきゃ…いけない。)

 

誰かが苦しんで出来た『新世界』に何の意味があるのか…。

悠木は真剣な表情を珠皇に向ける。

これから来る未来を守る為に。

珠皇に結界を解放して貰いたい。

 

「………悠木?」

 

いつになく真剣な表情で自分を見る悠木に珠皇は不安になった。

今、珠皇に向けられている悠木の表情は何だか何時も笑顔の悠木らしくない表情だ。

 

「珠皇、お願い。学校に張った結界を解いて………!」

 

亀裂を封じねば沢山の人が苦しみ、夜一族の思う通りに事が運ぶ。

悠木の中に眠る夜一族の血は『新世界』に危機感を抱いていた。

『新世界を迎えてはならない』と。

それに結界を無理矢理突き破ればずっと想っていた珠皇の生死に関わる。

 

「悠木、何故…結界の事を知っている?!」

 

目を見開き珠皇は驚愕に顔を歪ませ悠木に声を荒げた。

学校に張った結界の事は普通に暮らす悠木は決して知るような事では無い。

普通の人間に結界を感じ取る事は出来ないから。

だから、結界の事を知る悠木は自分と似たような存在かあるいは人では無いのか…。珠皇は悠木の腕を捕らえる。

けれど悠木は真剣な表情を浮かべて真っ直ぐ珠皇を見つめていた。


15.

何も知らず、『神音』にばかり『悠木』は荷を背負わせていた。

『夜一族』の罪と母の想いも。

けれど悠木の身に流れる赤い血に宿るのは『人外の一族』の血。

 

(私も神音だもの)

 

『悠木』という人格は『神音』の欠片。

『夜一族』を忘れ人の中で生きる事を望んだ。

しかし、何時かは目覚めなければいけない。

 

夢から醒めて、

現実へと……。

 

「……珠皇、お願い…結界を解いて!」

 

両腕を捕らえられ悠木はそれでも珠皇を真剣に見つめた。

珠皇の表情が迷いに揺らぐ。

 

「珠皇!!」

 

しかし、運命とは時に過酷な試練を与える。

珠皇の背後から飛び出した一つの影が珠皇の名前を呼び、悠木に向かって人の形を模して象られた紙が投げつけられた。

恐らく平安時代より語り継がれる陰陽道の式神だろう。

 

(………!!)

 

悠木は自分に向かって飛んでくる式神の札にぎゅっと目をつむりとっさに腕で顔を庇う。

 

悠木………!!

 

神音の焦った声が悠木の脳裏に響いた。

 

(…今、死んだら『月夜(げつや)』を止められない…!!)

 

悠木は唇を噛み締めて泣くのを堪える。

心が恐怖で一杯になりそうだが珠皇や母、エルトレス…大切な人達の事を考えたら溢れる『想い』が恐怖を取り去る気がした。

悠木はキッと目前に迫る式神を睨みつけ自分の親指を歯で噛み、肉を少し切って親指から血の雫を流れさせる。

 

そして、今の悠木の瞳は輝く真紅の色を宿す。


16.

「我が前に立ちはだかりし愚かな者よ、平伏せ。眠りし主の血は四陣を描き如何なる力をもたたき伏せる。我は真紅に目覚めし王の破片、響け歌え王の歌!」

 

まるで歌うような術の詠唱と躍る指先。

悠木は綺麗に指先で『何か』を描く。

それが合図となり悠木に向かっていた式神は空から降って来た赤い細い光に射抜かれてただの紙になる。

 

「………っ!俺の式神が」

 

珠皇を庇うように立ち悠木と対峙している青年が驚愕の言葉を紡ぐ。

ひらりと地面に向かって舞うただの紙になった式神の札が彼の敗北を現しているようだった。

 

「…はぁ…は…」

 

無我夢中だったとしか悠木には言いようがない。

目前に迫る式神に恐怖を抱いたが恐怖より生存本能が強くとっさに術の詠唱を口にしていた。

やはり、自分は人間では無いと悠木は頭の片隅で思う。

 

(もう、迷っていられない)

 

大切な人達の未来を望むのなら尚更、人外の事は隠していられなかった。

それが母の願いで無くとも…。

 

「珠皇、結界を解いて…!あの結界は魔神を助けている…!!」

 

悠木は声を張り上げて言った。

珠皇の事が好きだから、余計に彼を助けたいと望む。

 

「…………悠木」

 

悠木の必死な問いかけに珠皇は悠木を見つめて弱々しく消え入りそうな声で悠木の名前を呟いた。


17.

真紅の瞳は

  魔性の証。

 

「お願い、珠皇!結界を解いて…魔神が…世界を…」

 

不意に悠木の背後から感じた殺気。

肩に食い込む冷たい刃の感触。

突然の出来事に悠木は刺されたと遅れて知る。

 

「悠木っ!」

 

珠皇は顔色を青く変えて悠木の腕を引っ張り自分の方へ引き寄せた。

肩に刺さる短剣。

悠木は短剣の柄を握り締め短剣を肩から引き抜いた。

ズキンと肉と神経が斬れた痛みが悠木の身体中に走り鮮血が地面に飛び散る。

 

「…勇ましいですね、まさか貴方まで出て来てるなんて思いもしなかったよ。神音(かのん)」

 

冷たく殺気が含まれた声。

悠木の肩を短剣で刺し貫いた人物はクスクスと笑っている。

金の髪に夜一族の証とされる真紅の瞳。

片手に鎌の柄を握り締めた青年が悠木達を見下すように見つめていた。

 

「………っ!」

 

悠木は自分の肩から引き抜いた短剣をその人物に向かって投げる。

短剣を投げられたその人物は短剣を片手で掴む。

刃がその人物の手の肉を裂き手から血が出るが構わずニコリと微笑んだ。

 

「一族の中で君の存在はごく一部の者しか知らない。癒音は君を身ごもったまま行方をくらました、そして君達親子は一族抜けの罪で処刑リストに載っている」

 

ニッコリとその人物は笑う。

片手に握り締めた鎌の柄を軽々と前に突き出し刃を悠木に向けた。

 

「悠木、逃げろ。コイツは俺が抑える」

 

纏う殺気も気配も人間とは異なるその人物の圧倒的な存在感に珠皇は悠木の耳元で逃げる様に言う。

 

「珠皇…!駄目だよ!」

 

実戦経験、力の差…敗北は目に見えている。

悠木は珠皇の制服の上着を握り締め珠皇に訴えた。

 

「俺は悠木が人間で無くても悠木を信じている」

 

まるで魔法の呪文。

珠皇が『人間でなくても信じている』と言ってくれた。

心にストンと落ちたその言葉に悠木は瞳から涙を流す。

勇気と希望で心が満たされる。


18.

「……綺麗だね。お互いを信じ合えるって…私にはもう無いものだ」

 

悠木と珠皇の絆。

心が揺らぐ。

満開に咲き誇った花束を抱えて自分に笑ってくれる愛し子が今の彼の支え。

 

『光夜さん…』

 

新世界など興味は無い。

唯、あの子が傍にいてくれたらそれで…。

他に望むものなど…ないのに。

 

手にした鎌を振り上げる。

それは真っ直ぐに珠皇と悠木を狙う。

 

「………っ!」

 

珠皇は悠木の腰に手を回しキツく抱き締め目を瞑る。

振り下ろされた鎌が空を切る音が塞がれた視界に聞こえた。

 

キイン!

 

「………!」

 

振り下ろされた鎌が刀の刃で受け止められる。

その音に珠皇は悠木を抱き締めたままゆっくり瞼を開け現実を見た。

金の長い髪、赤い刃の刀が鎌を受け止めている。

 

「……錐夜……」

 

悠木が呟く。

悠木と珠皇を庇うように立ち真っ直ぐ錐夜は彼を見つめている。

目の前で鎌の柄を握り締めている静輝の養父。

 

「光夜さん」

 

錐夜は哀しげな表情を浮かべて顔を俯かせる。

解っていた筈だ。

光夜は静輝の養父で一族の断罪者。

禁忌を犯した者、長に刃向かう者を裁く事を許されている人。

だから真っ先に彼が刺客として立ちはだかる。

 

「断罪者として随分、手間が省けるよ。錐夜」

 

強大な刃を持つ鎌の柄を軽々と持ち方を変えて光夜は口の端を吊り上げ言う。

ここで悠木と錐夜を始末するつもりなのだろう。

錐夜はそれを感じ取り刀を構え直す。

 

「俺が光夜さんを抑えている間にそこの陰陽師共を連れて逃げろ、悠木」

 

小さな声で錐夜は額に汗を滲ませて悠木を見つめる。

錐夜も決して弱くはない否、強い。

だが相手は『断罪者』の光夜だ。

実戦経験の差は歴然。

勝てる見込みは無いに等しい。

 

「錐夜…ありがとう。行こう!珠皇」

 

悠木は肩の痛みに耐え珠皇の手を引いて走り出す。

どの道、珠皇や悠木が残ったとしても勝ち目は無い。

悠木と珠皇達が屋上を走り去ったのを確認し錐夜は真っ直ぐ光夜を見つめる。

 

「…始めようか」

 

光夜がニコリと微笑み攻撃するべく足を踏み出す。

錐夜も刀を構え光夜を睨みつけた。


19.

ギイン!と学校の屋上には不釣り合いな金属音が響く。

美しい金の髪は揺れ、真紅の瞳は冷たい光を宿す。

先程から戦い続けている錐夜と光夜は互いに息を乱さず互いの隙を窺っている。

 

「さすがは光夜さん。」

 

錐夜は刀を構えてニッと口の端を吊り上げて笑う。

夜一族の禁忌を破った者を長に代わって裁く。

『断罪者の光夜』の名前を夜一族で知らぬ者はいない。

 

「おっとりしているかと思えば案外、食えない性格してるねぇ、エルトレスちゃん」

 

そう言って光夜は瞬速の速さで移動し錐夜の目の前に立ち鎌を振り下ろす。

錐夜は夜一族の中で『真性封印種』と呼ばれる種に入る。

『真性封印種』は男と女に自在に姿を変える特異な種で夜一族では危険視されている種だ。

『災厄の子』とされ錐夜は幼い時より幽閉されていた。

エルトレスというのは錐夜の女の姿の時に呼ばれている名前。

 

「本当に戮夜(りくや)と神月(こうづき)の子供かい?君を見ていると懐かしい人を思い出す」

 

戮夜と神月は錐夜の育ての両親だ。

錐夜は光夜の鎌を刀で受け止める。

互いの距離が近い。

光夜は更に言葉を紡いだ。

 

「君は本当は翠夜(すいや)と神夜(しんや)の子供じゃないのか?」

 

光夜の言葉に錐夜は目を見開いた。

『真性封印種』であり恐ろしい程の力を秘めていた実の母親の名前は『翡翠(ひすい)』。

夜一族の者達からは翠夜(すいや)と呼ばれていたらしいが…。

ギリギリと鎌と刀がぶつかり合って互いの刃が擦れ合う。

 

「………」

 

錐夜の刀から力が溢れる。

その力をバネに錐夜は光夜の鎌の刃を薙払う。

鎌の刃が錐夜に弾かれ光夜はじっと錐夜を見つめていた。


20.

『私が罪人でお前が裁くならそれも良い。だが、光夜…お前に私は殺せない。何故だと思う?』

 

鎌の刃を向けられてもその人は自信満々に笑っていた。

翡翠色の髪に真紅の瞳。

まるで全てを見透かしているような真紅の瞳に光夜は何時も逸らす事しか出来ない。

 

『…光夜、お前が愛を知ったからだ。』

 

誰かを愛し…愛され、確かに光夜は知ってしまった。

『約束の地』の在処を。

そして、守る強さも。

 

「………その反応を見ると本当に翡翠の子だったのか」

 

光夜は錐夜に向けていた鎌を消す。

鎌は光の粒子となり光夜の手のひらに吸い込まれた。

翡翠は唯一人、一族の行く末を心配していたのを光夜はよく知っている。

 

(ああ、だから静輝は―‥)

 

危険を承知で錐夜と共に行ったのかと光夜は理解した。

 

「光夜さん、俺は確かに翡翠の子だ。だが、あのジジイは俺の父親じゃない」

 

『父さんは知らないんだよ』そう言った母親はとても悲しそうだった。

人知れず錐夜(エルトレス)を産んだ錐夜の母親。

『私がお前を産んだ事を』と。

 

だけど、エルトレス

私はお前を産んだ事を

一度だって後悔した事はない

それだけは

信じて欲しい―‥

 


21.

「エルトレスちゃん、君は神夜を殺してくれるかい?」

 

鎌の柄を握り締め光夜は小さく呟く。

先代の長であり錐夜(エルトレス)の母親が愛した人。

錐夜(エルトレス)にとって神夜は―‥

 

「もう、神夜は『神夜』では無い。今の神夜は翡翠に出逢う前の神夜だ」

 

光夜はそう言って自嘲的に微笑むと鎌の柄を握り締めた手をゆっくり動かし鎌の刃の切っ先を自分の胸に向けた。

錐夜は目を見開き光夜の行動を止めようと手をのばす。

 

「俺達の『神夜』は過去を乗り越えた『神夜』だから」

 

鈍い音が辺りを支配する。

平和な学校の屋上には似合わない鮮血が飛び散った跡。

光夜の唇が震えながらも動く。

 

神夜を止めてくれ

 

光夜の白い衣服が鮮血で赤に染まり光夜は力なく崩れ落ちた。

錐夜が地面に崩れ落ちる光夜の身体を受け止めた時、微かに『静輝』と聞こえ錐夜は神に縋りたい気持ちで空を見上げる。

 

(このままでは光夜さんが…!)

 

体温が徐々に冷たくなっていく。

医者でもない錐夜にはこの状況はどうしようも無いのだ。

真性封印種がいくら強い癒やしの力を持つとはいえ急所が外れず心臓に刃が刺さった光夜を助ける事は…。

だが、ここで諦めてしまえばこの先月夜を止める事が出来ない気がした。

 

「我が身に宿りし癒やしの力よ、深き慈愛を持ちし月読(つくよみ)の加護を受け今ここに…目覚める事を我は望む」

 

白い光が錐夜を包み錐夜は少女エルトレスへと姿を変える。

癒やしの祈りを紡ぎエルトレスは光夜の身体を抱き締めた。

エルトレスの中にある癒やしの力がエルトレスの手を通して光夜の身体に流れ込む。

死んだ細胞を蘇生させる程の強い力が無ければ光夜は救えない。

出血が酷く刃が心臓に達している、封印種の癒やしの力でも『血の触媒』なしにこれを治すのは容易では無いのだ。

最早、奇跡を願うしかない。


22.

「…生きて…いる…?」

 

覚めない眠りについた筈の意識が現実へと引き戻され。

重い瞼をあげて視界に映ったのは紫色の長い髪。

涙を今にもその瞳から溢れさせそうなぐらいに悲しそうな表情をして光夜を見ているのは紫色の長い髪がとても美しい、静輝だった。

 

「光夜さんの馬鹿っ!!」

 

第一声で静輝は光夜に怒鳴りつける。光夜は目を見開き静輝の表情を見つめた。

瞳が涙で潤み真っ赤な頬に涙が伝い静輝は服の袖で乱暴に涙を拭う。

 

「静ちゃん、そんなに乱暴に目こすったらウサギさんの目になっちゃうよ」

 

優しく静輝の両腕を掴んで光夜は静輝が目を拭うのを止めさせる。

静輝は涙目で光夜を睨むが光夜はにっこりと微笑む。

 

「光夜さん……!」

 

瞳からポロポロと涙を零し静輝は光夜の胸元に抱きついた。

いつも冷静で穏やかな静輝が涙を流して泣いているのを見て光夜は静輝の頭を撫でてその華奢な身体を抱き締める。

 

「……死ぬかと、覚悟を決めていたが…生きているね」

 

胸元で啜り泣く静輝の背中を撫でてやりながら光夜は小さく呟く。

錐夜の両親が誰か気づいた光夜はこれ以上、口外の可能性が無いように自分の口を自分自身で塞ごうとした。

だが、エルトレスはそれを許さなかったのだろう。

 

「死なれたら困ります。光夜さんが死んだら私は帰る所がありません」

 

泣き疲れた掠れた声で静輝は光夜の服を握り締める。

大きくなって無邪気さが無くなった静輝は口調は冷たくも光夜を慕っているから光夜にはそれが嬉しかった。


23.

「…エルトレスちゃんは…幸せなのかな」

 

不意に光夜はポツリと呟く。

あの錐夜の様子からして自分の実の父親が誰なのか気がついて…否、知っているようだった。

睦月と神夜には白夜含めて三人の子供がいる。

出方が違えばエルトレスは神夜の後を継ぐ次期長に一番相応しい血筋の持ち主だ。

エルトレスの母親、翡翠は神夜が長を務める前に長候補の一人だったからだ。

 

「幸せかどうかは解りませんがエルトレスは自分が不幸だとは言ってませんでしたよ」

 

静輝のその言葉に光夜は納得する。

やはり、エルトレスは翡翠の子だ。

意志が強く、簡単に弱さを見せない。

光夜は静輝を抱き締めて空を見上げた。

 

「光夜さん、私達と一緒に月夜を止めてくれませんか?」

 

静輝は顔を上げて光夜の顔を見つめる。

現在の長である白夜と先代の長の友人だった『断罪者』の光夜がそう言われたら困るのを解っていながらも静輝は光夜に問う。

 

『光夜は神夜と白夜を裏切らねえよ。静輝、お前が説得してもな』

 

師である刹夜は厳しい面もちで錐夜の様子を見に行こうと学校へ行く静輝に告げた。

強固な意志の持ち主である光夜は自分が決意した事を裏切らない。

例えば静輝が光夜に対する『恋愛感情』を光夜に伝えても光夜が静輝を『自分の子』だと思ってしまえば静輝と光夜は死ぬまで親子だ。

 

「静ちゃん、解ってる筈だよ?俺は神夜と白夜を裏切らない。」

 

光夜が真剣な表情で静輝の予想通りの言葉を口にした。

学校の屋上、太陽の日差しの中静輝と光夜は互いを見つめている。

その時に―‥

 

「それが本当に『守る』かよ、光夜」

 


24.

光夜と静輝を見下ろすように学校の屋上のフェンスに立っている長身の男。

静輝は男を見て小さく「師匠」と呟いた。

そう、フェンスの上に立っているのは静輝の師匠であり朔夜の本当の父親である刹夜だ。

 

「刹……生きて…いた…のか…」

 

刹夜の姿を見た瞬間、光夜は驚きに目を見開いた。

光夜のその表情を目にした時、刹夜は酷薄な笑みを浮かべる。

 

「驚いたか?光夜」

 

フェンスから降りて刹夜は光夜の前へと歩く。

 

「殺した筈の友人が生きている事が」

 

くく…と小さく笑い刹夜は光夜の胸ぐらを掴んで引き寄せた。

刹夜の紡いだ言葉に静輝が驚かない筈は無かい。

光夜は月夜を危険視していた刹夜を殺そうとしていたのだ。

 

『一族同士が争う事はとても悲しいわ』

 

かつてエルトレスが悲しげに口にした言葉を静輝は今胸が痛くなるほど感じた。

一族同士が争い友人達が傷つけ合い家族が刃を向けあう。

 

(光夜さんが師匠を―‥)

 

静輝は爪が食い込むほど拳を握り締めた。

月夜は『理想郷』という名の新世界を創り上げようとしている。

 

「月夜のやろうとしている事は…神夜様も白夜様も幸せになる事なのですか?」

 

きっと、神夜は反対する筈だ。

『誰かの不幸の上に立つ世界は理想郷では無い』と。

光夜が心から大切に想う『神夜』なら。

 

「…静…ちゃん…」

 

静輝の問いに光夜は震えた声で静輝の名を呼ぶ。

誰かの不幸の上に成り立つ幸せに誰が幸せを感じる。

神夜は決して許さないだろう。

誰かの不幸の上に成り立つ幸せなどいらない、と。

 

「光夜、俺達が傷つけ合って出来た世界に立って神夜は喜ぶか?俺達の知る神夜はそんな事は望まない!」

 

刹夜は光夜の胸ぐらを掴んだまま声を上げて訴える。

 

「お前も解っている筈だ!誰かの不幸の上に成り立つ幸せの世界にアイツは立つ前に俺達に『自分を止めろ』って言う!」

 

刹夜は尚も声を上げて光夜に言う。

それは神夜と共に歩いて来た友人同士でなければ言えない事だ。

 

「アイツの意志を守るのは俺達だろう?!光夜」

 


25.

知っていた。

神夜が求めていたのは

誰かを傷つける前に

神夜自身が死ぬ事…

だけど、弱い己は

神夜と翡翠から目を逸らしていた。

二人はどれだけ傷ついたのだろう。

 

「お前だって神夜の気持ちをとっくに解っている筈だ!」

 

長年の友人である刹夜に胸ぐらを掴まれ怒鳴られて光夜は記憶を探る。

『神夜』はどういう人物だったのかを。

 

『光夜』

 

翡翠と出逢い光を取り戻した神夜はよく笑い冗談だって言っていた。

心を閉ざし全てを拒絶していたあの頃とは違い翡翠と出逢ってからの神夜は誰からも慕われる長だ。

 

「……光夜、俺はアイツの望みを叶えてやりたい」

「アイツの『想い』を取り戻す為に」

 

刹夜の『想い』が光夜の心にストンと落ちる。

今の神夜はもう光夜達の『神夜』では無い。

 

「翡翠、錐夜…頼む。終止符を」

 

空を見上げ光夜は呟いた。

一族同士の争いに悲しみ嘆き、傷つけあう。

光夜はそう遠くない過去、月夜の命令で刹夜と翡翠を殺そうとした。

刹夜は光夜から負わされた身体の傷の痛みに足のバランスを崩し断崖絶壁から落ちたのを見て光夜は生きているとは思いもしない。

翡翠は相変わらずの飄々とした雰囲気で「お前に私は殺せないよ」と笑う。

光夜は翡翠と戦ったがさすがは黒夜に剣術を叩き込んだ張本人。

光夜は翡翠に完敗し翡翠は行方を眩ました。

光夜は錐夜(エルトレス)の存在を知り、この戦いの終わりを感じた。

 

(本当にこの鎌(アレス)を振るうべき相手は――‥)

 


26.

悠木達の後を追い錐夜は学校の階段を駆け降りる。

途中、学校の生徒などとすれ違ったが錐夜は気にも止めずに悠木の気配を追った。

 

(悠木の気配が変わっている)

 

今の悠木は神音の姿では無い。

けれど追っている悠木の気配の質が変わり始めている。

まるで二つに別れていた人格が一つに戻ろうとしているかのようだ。

 

(悠木、本当に戦うのか)

 

錐夜は改めて悠木の決意を感じる。

大切な人を守る為に大好きな人達を守る為に悠木は本気で夜一族と戦うと決めたのだろう。

今まで普通の生活をしていた悠木。

それを錐夜と出逢い悠木は失って夜一族としての記憶を取り戻し始め。

そして、悠木は棘の道を選んだ。

 

(夜一族に戻ればもう普通の生活には)

 

戻れない。

大好きな人達にも逢えなくなる。

夜一族に戻るとはそういう事なのだ。

魔神を狩り、表舞台に立つことなく夜の闇の中を生きる。

人外の一族である限り、決して光の中にいる事は許されない。

 

(珠皇にも逢えなくなる)

 

悠木は戦う意志を既に見せている。

覚悟の上なのだろう。

普通の生活を捨て人外の一族として生きる事。

 

「珠皇、私…珠皇の事ずっと好きだった」

 

校舎の階段を降り悠木は珠皇と共に走っていた。

手をつなぎ、決して離すまいと。

しかし悠木は戦うと決めたのだ。

月夜の求める『新世界』ではきっと幸せなど得られない。

それに月夜は逆らう者に容赦しない冷酷な男だ。

悠木はこれ以上大切な人達を失いたくない。

繋いでいた手を離し悠木は微笑む。


27.

 

「私、人じゃないの」

 

珠皇は人外の一族を酷く憎んでいる。

昔、大切な人を人外の者に殺害されて…。

けれど悠木の中に流れる血は人外の『血』だ。

その血が示す通り悠木は『人間』では無い。

 

「悠木……」

 

珠皇が悠木の告白に目を見開いて驚く。

自分がずっと信じ守りたかった少女は『人外』だったのだ。

 

(珠皇に、さよなら…しなきゃね)

 

迷走する『夜一族』を止めなければいけない。

母の望みでなくとも悠木は戦う覚悟を決めた。

もう、あと戻りは出来ない。

 

「珠皇、大好き」

 

悠木は涙をこらえた笑顔を浮かべる。この先、珠皇にはきっと自分以外の愛しくて大切な存在に出逢いその人を愛しても悠木は珠皇を守りたい。

 

「悠……っ!」

 

精一杯の悠木の笑顔。

珠皇は悠木に触れようと手を動かすが校舎の中、窓が閉まっている筈なのに珠皇の身体を突風が突き抜けた。

突然の突風に目を瞑った珠皇が再び目を開けた時には悠木の姿はどこにもなかった。

 

「………俺はどうしてここに?」

 

学校の校舎の廊下に立ち珠皇は小さくそう呟く。

 

「きーりーや!」

 

学校の校舎の廊下を走っていた錐夜の名が突然呼ばれ錐夜が辺りを見回すと悠木は走って来て錐夜の腰に勢いよく抱きついた。

 

「悠木」

 

錐夜は普通の生活に別れを告げた悠木の心情を察し悠木の頭を撫でてやると悠木は錐夜の身体に頭をぐりぐりとこすりつける。

 

「錐夜、誰かの記憶から自分がいなくなるのって…すごく哀しいね」

 

堪えきれずに溢れた涙を拭う事無く、悠木はポロポロと涙を零す。

錐夜はただ黙って悠木の頭を撫で続けていた。


28.

朝になればお母さんが「悠木、朝よ」って起こしてくれる。

眠い目をこすりながらリビングに行くと新聞を読んでいたお父さんが顔を上げて「おはよう、悠木」って笑ってくれて、学校へ行けば珠皇が…珠皇が「悠木、おはよう」って言ってくれるの。

…幸せで満ち足りた普通の生活。

何気なくて変わり映えのしない日常の風景。

だけど、知ってしまった。

『悠木』という私は人では無い一族で。

この身に流れる血は『人間』の血では無くて…。

私はもう、あと戻りは出来ない。

大切な人達から『私』の記憶を消し去って私は前へ歩き始める。

 

「落ち着いたか?悠木」

 

学校から悠木を連れて退散して来た錐夜は必死に泣き止もうと嗚咽を繰り返す悠木の頭を撫でてやる。

悠木は自分の周りにいる人達の記憶から『悠木』を消し去った。

 

「うん…ごめんね、錐夜」

 

悠木は涙で濡れたハンカチを握り締め頷く。

 

「消したのか、自分に関わる全ての記憶を」

 

恐らく先程、吹いた突風は悠木の『力』だったのだろう。

この学校…否、この街にいる『悠木』を知る者から悠木は記憶を消し去った。

本来、誰かから対象の記憶を消す時、精神崩壊を招く事もある。

しかし悠木は誰一人の精神を崩壊させる事無く『悠木』に関する記憶を消した。

 

「…そうだ、錐夜。珠皇が学校に張った結界はコレを通して破壊出来ないかな?」

 

悠木はそう言って制服のポケットからペンダントを取り出す。

キラキラと繊細に輝くムーンストーンのペンダント。

珠皇から貰った悠木の大切なペンダント。

 

「いいのか?このペンダントを使ったら壊れるかも知れない」

 

錐夜がそう言えば悠木は頷く。

悠木にとって今まで生きて来たこの街はとても大切なもの。

大切な街が救えるのなら自分の些細な犠牲は払う覚悟があるのだろう。

 

「それがみんなを救える『何か』になれるなら、私は構わないよ」

 


29.

大切な人から貰ったプレゼントを犠牲にすることを強く決意した悠木を前に錐夜は少しの違和感を感じる。

錐夜には悠木が神音に見えるのだ。

悠木の意識と神音の意識が重なっているようにも見える。

 

(…悠木…)

 

別の人格だった神音と悠木。

もしかしたら悠木と神音の人格は一つに戻っているのかも知れない。

 

「錐夜、行こう。誰かが傷つく『新世界』なんて創っちゃいけない」

 

例え、絶望の闇に呑まれても止めねばならない。

『新世界』を創造しようとしている今の『夜一族』は本来の在り方を忘れてしまっているのだ。

錐夜達がしようとしている事は決して絶対に正しい事では無くとも…。

 

「行こう、悠木」

 

悠木の手を握り締め錐夜と悠木は前に向かい進む。

行き着く先が絶望だろうと。


30.

 

「…おかえり、錐夜」

 

塚本から与えられた家に悠木を連れて戻った錐夜は最愛の師匠である黒夜のいる二階のとある一室に入る。

黒夜は少し疲れた表情をしている錐夜に「おかえり」と微笑んで出迎えた。

 

「師匠……」

 

錐夜はフラリとよろつく足取りで黒夜の腕の中に飛び込んだ。

長い金髪が束ねている紐が外れて今は綺麗に錐夜の背中に流れている。

 

「錐夜、おいで」

 

錐夜の真紅の瞳が不安気に揺れているのを見て黒夜は微笑み、自分の首筋を錐夜の眼前に晒す。

 

『吸血衝動』。

吸血一族でもある『夜一族』は他人から血を吸い己のあらゆる欲望を満たす。

錐夜は特に強い力と血縁力を持つ『夜一族』の両親を持つ為に吸血鬼特有の『吸血衝動』は並みの吸血鬼より衝動が強い。

本来なら一週間と抑えの効かない衝動を錐夜は無理矢理抑え込み3ヶ月は耐えている。

勿論、今黒夜が首筋を晒しているこの状態も錐夜には耐え難い。

すぐにでも首筋に歯をたて血が飲みたいのだ。

けれど、血を飲む事が耐えられない。

愛する人に傷をつけたくない。

 

「飲みなさい、錐夜。」

 

私は構わないから、と黒夜は錐夜の綺麗な金の髪を指で梳く。

 

「師匠」

 

錐夜は短く黒夜の事を呟き遠慮がちに黒夜の首筋に歯をたてた。

ぷつりと歯が首筋の肉に刺さり首筋から少量の血が流れる。

錐夜は一滴も逃すまいと黒夜の首筋から鎖骨までに流れる血も舌を這わせて舐めた。

 

(何時まで経っても初々しいな)

 

錐夜が黒夜の血を飲むのはこれが初めてでは無い。

大抵、錐夜は黒夜の血しか飲まないのだから。

数え切れない程、錐夜は黒夜と吸血行為をしている。

今もこれから先も…。


31.

 

「相変わらずだね、黒夜」

 

吸血行為の後、錐夜は身体が楽になった為に眠ってしまった。

黒夜は錐夜をベッドに寝かせ毛布を掛けて錐夜の寝顔を椅子に腰を下ろして見つめていたら突然、部屋の扉を開けて光夜が入って来た。

 

「どういう意味だ?光夜」

 

口の端を吊り上げて黒夜は冷たい笑みを浮かべ光夜の方へ振り向かず言う。

 

「意地が悪いね。解ってるくせに」

 

光夜はクスクスと小さく鈴の音のように笑う。

 

「知っているよ、君がまだ破夜様の『銀帝』だって事」

 

光夜が楽しそうにそう言った瞬間、黒夜の指がピクリと動いた。

 

「ねぇ、純血種と偽り続けている『最初の死醒種』」

 

黙っている黒夜に構わず光夜は歌うように言葉を紡ぐ。

 

「今度はエルトレスを裏切るの?」

 

冷たく響く光夜の言葉に黒夜は沈黙を守る。

偽り続けている心の真意は黒夜自身にしか解り得ない。

光夜は黒夜を見つめ続けていた。

 

「君がまだ破夜様の駒でも誰にも言わないよ。だけど、これ以上その子を傷つけるのは止めなよ。その子が大切なら尚更」

 

光夜はため息と共に黒夜にそう言い告げるとすぐに部屋を出て行った。

光夜は静輝と出逢い愛する事を静輝から教えて貰い、自分だけの楽園を知り得る。

黒夜とて気づいている筈だ、自分が何処にいるべきか誰の傍にいるべきか。

光夜は大切な友の願いと愛する人を守るとこの道を選んだ。

かつて友が愛したあの『翡翠』は愉快そうに笑うだろう。

 

『ほら、私の言った通りだろう?光』

『お前は知れた』

『愛を』

 

それが凄く癪に障るが光夜は愛する人の所へ戻った。


32.

 

「エルトレス…すまない」

 

眠る錐夜の手を握り締め黒夜は錐夜に頭を下げた。

許して欲しいとは考えていない。

 

『復讐の為だった…神夜に近づいたのも…なのに…私は』

 

今も瞼を閉じれば脳裏に焼きついて離れない翡翠の涙。

強く気高い彼女が復讐と愛の狭間に揺れ動き泣いたのを黒夜は見たことがあった。

 

『強くなれ、クロ。私の娘とお前が道を違えたとしても…』

 

錐夜(エルトレス)の母親である翡翠は恐ろしく強い人物だった。

今も強い光夜や刹夜も昔、翡翠と戦って敗れている。

黒夜はずっと近くで翡翠を見ていた。

 

「今、エルトレスと私の道が違(たが)えていたとしても…最後には私はエルトレスの傍に帰りたい」

 

光夜の言うとおり黒夜はまだ破夜の『銀帝』だ。

破夜は月夜と共に『新世界』創ろうと今も夜一族の長の屋敷の地下で暗躍している。

 

『……すまない。クロ』

 

愛刀を片手に翡翠は昔、黒夜に頭を下げた。

長の屋敷の地下室で翡翠は自分の父親である破夜を封じ込めたのだ。

復讐と愛に揺れ動き、翡翠は結局果たせなかった。

自分の母親を殺した父親への復讐と全てを狂わせた月夜への復讐。

月夜と神夜が来なければ翡翠と両親は幸せな家族のままだったから。

 

『…私の腹に宿っている子は決して生まれてはいけない『運命の子』だ。だが、私はこの子を産む…この腹の子は私の愛しい子だからだ』

 

黒夜は錐夜の手を握り締めて顔を俯かせる。

この狂った運命が終われば良いのに、と。


33.

 

「…リース…」

 

消された記憶は夢を見せる。

消された愛は記憶を呼び覚ます。

抱き締めて欲しい、口づけが欲しい、と心が叫び愛しい人を求める。

 

(ここに繋がれて何日経ったのだろうか)

 

両腕を鎖で繋がれ夜一族の地下室に閉じ込められて何日経ったのか。

脱出する方法さえ見つからず眠って現実から逃げる。

そして、かけられた呪いが効力を増し記憶が戻り始めていた。

愛しいリースラートの記憶。

 

(私は死んだって構わない。怖いのはリースの記憶が私から消える事なのだ)

 

自分の命の長さは自分が一番解っている。

リースは生きて欲しくてシルヴァリスに自分の力を与えたのだろう。

 

「久しぶりだな、シル」

 

鎖に繋がれ身動き出来ないシルヴァリスの前に一人の少女が天井から降り立った。

美しい翡翠の髪に赤い真紅の瞳。

常に自信に満ち溢れ男勝りなこの少女はかつて夜一族最強と謳われていた。

少女の名はその美しい翡翠の髪とおなじく『翡翠』という。

 

「翡翠…久しいな」

 

弱々しくもシルヴァリスは懐かしい翡翠の姿に笑みを浮かべた。

 

「長く、は無さそうだね。シル」

 

長い時を渡って来た翡翠にシルヴァリスの命の長さが見えるのだろうか。

翡翠は少し残念そうに呟く。

 

「…リースを騙したのか?翡翠の魔女。リースの力はどの道リースへ還ると始めから貴方なら知っていた筈だ」

 

神戒種のリースラートの力はどの道、シルヴァリスの身体から離れリースラートへ還る。

術の知識が豊富な翡翠が知らないわけでは無い。

 

「シルがあの時に死んでたらリースラートは後を追う。それはシルが望まない結末だろう?」

 

翡翠はそう言って自信満々に笑った。


34.

 

君の笑顔は暖かく

君の泣き顔は綺麗で

君の怒った顔は可愛くて

 

決して上手くはない音程の歌は癒やしだった。

何時だって君の表情は宝物だった。

 

リース……

君が愛しくて涙が止まらない―‥

 

「リースが望むなら、リースを連れて逝こうと思っていた」

 

死をもってしてもリースラートと離れたくない程の深い愛と燃えるような想い。

シルヴァリスは苦しげに呟く。

 

「……リースにはまだ未来があるのに…けれど私には」

 

シルヴァリスの身体を蝕む呪いを抑えていたリースラートの力はシルヴァリスを離れ始めている。

その証拠に失っていたリースラートの記憶が戻ったのだ。

しかし、今までシルヴァリスの言葉を聞いていた翡翠は口を開き言葉を紡ぐ。

 

「未来ならあるよ、シルヴァリス」

 

それは水面を打つように静かでけれど確かな芯を持った凛とした声。

翡翠は少女の姿なのにとても大人びた微笑みを浮かべる。

 

「死の向こうにあるのは新しい未来だ」

 

翡翠はそう言ってシルヴァリスの頭を撫でる。

 

「魂の転生か………?けれど翡翠、生まれ変わった者を見つけるのは」

 

『困難だ』とシルヴァリスが声を上げる前に翡翠は人差し指をたてシルヴァリスの唇にあてた。

 

「シルヴァリスの身体をもう一度浄化し赤ん坊に戻せばリースラートと離れずに済む」

 

『私は不可能を可能にする翡翠の魔女だからね』と翡翠は子供のような悪戯な笑みを浮かべてシルヴァリスの頭をもう一度撫でつけた。

 

(誰にも未来はあるさ。なあ?神夜)

 


35.

それは昔の話。

昔といっても時代が変わる程、昔では無い。

少し昔の話だ。

 幸せだった家族は崩れ悲運な宿命へと向かっていく。

その中心に翡翠はいたのだ。

仲むつまじい両親が突如変わった。

翡翠の目の前で翡翠の母親は父親に斬られたのだ。

 

母は両手を広げて翡翠の前に立ち斬られた。

つまり、母が庇わなければ斬られていたのは翡翠の方だったのだ。

 

『母様……!母様―――――!!』

 

血濡れの母親は事切れる瞬間まで翡翠の頬を撫でていた。

『翡翠』とかすれた声が翡翠を呼び続けて。

 母を看取った翡翠の殺意が父に向けられ翡翠はその時に『真性封印種』に覚醒し父に手傷を負わせたのだ。

『封印種』に戦う力は殆ど無いが『真性封印種』の能力は圧倒的な強さを身につけられる。

 その事件をきっかけに翡翠は長らく幽閉される身となった。

理由は一つ、父が翡翠の力を危険視した為。

その時の翡翠は母を失ったショックで何をするか解らなかったからだ。

 

『……何故、母様……』

 

暫く翡翠は泣くばかりの日々を送った。

影でずっと翡翠の事を見ていた神夜は密かに月夜と翡翠の父親を葬ろうと決意していた。

 

(けれど、神夜は出来なかった)

(月夜を裏切る事が出来なかった…)

 

「翡翠が何をしようと運命は私にある」

 

夜一族の里の長の屋敷に月夜は口の端を吊り上げてニヤリと不敵に笑った。


36.

魂の転生。

それが本当に可能な事なら

『世界』の悲しみも少しは拭われるだろう。

例えば失った大切な人の言葉をもう一度聞けばそれで何か救われるのかも知れない。

 

翡翠の母親は仮にも破夜の妻だったのだ。

 彼女が何も残さず翡翠を独りにするわけが無い。

 

「…………」

 

夜風に晒された桜色の髪。

血の如く真紅の瞳は『夜一族』の証。

どこか錐夜に似ている青年は片手に握り締めていた刀を振り上げて宙を斬る。

刀の刃についた黒い液体がびちゃりと音をたてて地面に叩きつけられ。

 青年は涼やかな瞳で微かに笑う。

月光に照らされた青年の姿はとても美しく全てを圧倒するような威厳すら見受けられた。

 

「月が満ちるか。…フフ、楽しくなりそうだ」

 

青年は夜空に浮かぶ満月を見つめて笑う。

人気のない住宅街の路地で人知れず異形の存在と人外の者は戦う。

 

運命はまだ巡り出したばかりだ。