01.bloodcross

第一章「邂逅と決意」

01.

暗い闇。

これはきっと夢の中なのだろうか?

悠木は闇の中で独り歩く。

 

『…悠木…』

 

暗い闇の中で声がする。

それも自分を呼ぶ声。

悠木は辺りを見回し声の主を探した。

 

「…どなた…ですか?」

 

悠木がそう聞くと暗い闇の中、悠木の前にぼんやりとした一つの丸い光が現れた。

光は徐々にのびて人の形を作り始める。

 

『…此処は夢の中であってそうでは無い…』

 

人の形をした光は悠木の頬に触れる。

するとまるで鏡のように悠木の目の前に現れたのは『悠木』だった。

けれど悠木の目の前に現れた『悠木』は茶色の髪では無く美しい白銀の髪。

 

「……神音……?」

 

目を見開き悠木は目の前の自分に問う。

その問いに白銀の髪の悠木は穏やかに微笑んだ。

 

『…そうね。私は神音であって神音では無い…』

「……え?」

『けれど、あなたは悠木であって神音でもある。』

 

問いの答えが解らない。

目の前の白銀の髪の悠木は『神音』であるのにそうでは無いと言う。

そして悠木が『神音』でもあると…。

 

「…か…の…ん…」

 

悠木は『神音』と声に出して呟く。

その時、ドクンと心臓が高く脈打ち体に流れる血が熱い。

 

『神音』

 

『悠木』

 

『記憶』

 

『夜一族』

 

『母親』

 

『愛』

 

「…お…母さ…ん」

 

震える声で悠木は言葉を紡ぐ。

消えた『記憶』の中で微笑む母親。

 

『私は神音の一部の記憶と神音の母親の血によって生まれた意識。』

 

母親の記憶、夜一族の記憶…消したのは紛れもない母。

そして今も昔も母はずっと……。

 

『悠木の意識を守る為に私は生まれた』

 


02.

塚本に与えられた住居は新築された二階建ての綺麗な家だ。

中を入れば生活に必要な設備と家具は全て取り揃えてありどれも綺麗なものである。

そして着いて早々に錐夜はベッドに入って眠り始めていた。

錐夜を寝かせ部屋の掃除を大体終わらせた静輝とリースラートは一階のリビングで朔夜が用意してくれた紅茶を飲み三人はソファーに座りながら一息つく。

 

「寝つき良いね~錐夜は…」

 

リースラートは紅茶を飲み満足そうに笑う。

朔夜が用意してくれた紅茶は甘さも丁度良く渋みも少なくて美味しい。

 

「寝つきは良いのですが…問題は…」

 

砂糖をいれずに静輝は紅茶を飲み小さく呟いた。

ベッドに入れば10秒程でぐっすりと熟睡する錐夜だが問題が一つあるのだ。

 

「低血圧だから起こす時大変なんだよ」

 

朔夜がニッコリと笑顔で静輝の言葉を続ける。

それを聞きリースラートは不思議そうに首を傾げた。

どんな風に大変なのか想像がつかない。

 

「どんな風に大変なんですか?」

 

リースラートは疑問を抱いたままは気持ち悪い。

思いきって二人に聞いてみる。

 

「ん~第一段階では殺気飛ばされるね、で第二段階は抜刀してくる。第三段階はベッドに連れ込まれるから」

「起こす時は気をつけた方がいいよ」と付け加え朔夜がニコニコしながらそう答えた時にはリースラートの顔色は蒼白に変わっていた。

「…ベッドに連れ込まれると大変ですから」

 

サラリと静輝がそう言いのける。

それを聞いてリースラートは二人とも体験者なのか気になったがさすがにそこまで聞けなかった。

 

「まあ、緊急時は察知して勝手に起きて来るのは…唯一の救いかな」

 

朔夜はそう言っておかわりの紅茶をカップに注ぎ始める。

もし起こしに行ってくれと言われた時は覚悟を決めなければいけないのだろう。

リースラートはしみじみ思いながら紅茶を飲むがこの後、錐夜を起こしに行く羽目になるとは一切知らない。


03.

「錐夜ー」

 

厄日だろうか?

先程までの幸せな一時と違いリースラートは落胆の表情を浮かべている。

錐夜の部屋の前。

今から錐夜を起こす大役を果たさなければいけない。

何故、こんな事になったのか…。

 

「錐夜ー」

 

部屋の扉をノックしても勿論返事が無い。

リースラートはため息をついて覚悟を決めると扉を開け部屋に入った。

まだこの家に住んで間もない。

部屋には寝具と窓しか無い殺風景な部屋。

 

リースラートはベッドの方へ歩み寄る。

 

「…………え?」

 

ベッドを覗き込むとシーツにくるまって眠っている金の髪の―‥。

 

「女の子?」

 

短い金の髪と整った顔立ち。

瞼を閉じていても解る程、眠っている少女は可愛らしい。

小柄で華奢な体躯は腕に力をいれたら壊れてしまうのではないかと思ってしまう。

 

(…可愛い…)

 

リースラートはそっと少女の柔らかな金の髪を撫でる。

すると少女はリースラートの気配に気づいたのかパチリと目を開けた。

 

「う……?おはよう…リースちゃん…」

 

目を開けた女の子は錐夜と同じ真紅の大きな瞳でとても可愛らしい。

リースラートは思わず彼女に見とれていたが少女は目をこすりながら上体を起こす。

 

(あれ…?リースちゃん…?)

 

何で初めて逢った筈の女の子はリースラートの名前を知っている。

リースラートは疑問に感じて少女を見つめた。

 

「…あ、今この姿だね。えと、私はエルトレス。錐夜だよ」

 

ニコッとエルトレスは微笑む。

その微笑みが花の様で明るい。


04.

「えぇー!」

 

信じられない。

リースラートは驚いた表情を浮かべ思わずエルトレスを指差してしまった。

しかし、指さされたエルトレスはニコニコと微笑む。

エルトレスのその姿が錐夜と重ならない。

 

「…ごめんね。驚かせて」

 

エルトレスはそう言って苦笑いを浮かべて「でも、リースちゃんなら許してくれると思ったの」と無邪気に言う。

 

(許す…?)

 

何故…………?とリースラートが思った瞬間、リースラートの鼓動がドクンと高く脈打つ。

リースラートは目を見開きエルトレスを見つめた。

 

「…忌み子と言われるの。一族では雌雄になる者を…だから許されない。」

 

エルトレスは真っ直ぐリースラートの瞳を見つめる。

その真剣な表情はやはり錐夜と同じ。

リースラートは俯きエルトレスから目を逸らした。

 

「…リースちゃん…私は…知っていたの。…貴女の事…」

 

愛した人の手を自ら離し自ら身を引くのはどれほど辛いのだろう?

エルトレスはそう考えていた。

目の前にいるリースラートは辛い選択をしたのだ。

愛した人を守る為に。

 

「……あなたに知らない事は無いの?」

 

戸惑いに揺らいだ瞳でリースラートはエルトレスに語りかける。

全て見抜かれている様だ。

嘘も真実も…。

 

「…私には私と繋がる人の一部の記憶しか見えない…」

 

エルトレスは部屋の窓から見える夜の外を見つめる。

見たくないのに知ってしまう。

どうして母はこの力を封印してくれなかったのか。

 

「…話します。リースラートさん」

 

決意を秘めた強い光を宿した瞳をエルトレスはリースラートに向ける。


05.

「…話す?」

 

リースラートはエルトレスの瞳を真っ直ぐ見つめる。

いまだに信じられない。

あの錐夜と目の前の少女が同一人物だと。

しかし、目の前の少女の瞳も金の髪も錐夜と同じ。

 

「夜一族の里を出る時に後で話すと私は言いましたよ?」

 

エルトレスは微笑む。

幼さがまだ残る無垢な微笑み。

リースラートはエルトレスの言葉で夜一族の里を出る時、錐夜が後で話すと言っていたのを思い出す。

 

「…そういえば…」

 

リースラートが思い出してそう呟くとエルトレスは満足そうに微笑む。

 

「…リースちゃんの事を知ったのはリースちゃんを寝かせた後かな?朔夜に調べて貰ったの。後は私の見たリースちゃんの一部の記憶で知ったわ。」

 

夜一族の長を説得しに来てリースラートが長に苛められてるのを見て最初は「苦労してるなあ」とエルトレスは錐夜の時に感じた。

けれど気になったのはとうに滅びたと聞かされた『神戒種』の気配。

視界に映ったその気の色。

そしてリースラートが人間で無いと知った。

そして人を守ろうとする彼女が気になり朔夜に探らせそして見る。

リースラートの悲しい記憶を。

 

『お前は…誰だ?』

 

白昼夢の様に見えたその『記憶』はあまりにも切なくて辛かった。


06.

「…私は…後悔して無いわ…」

 

リースラートは震える声でやっと言葉を紡ぐ。

後悔していないと…。

最愛の人はリースラートの事を一切忘れその関係性も絶つという契約のもとに愛する人を救った。

その選択に悔いなどない。

 

「…けれど辛い選択でしょう?」

 

エルトレスはリースラートの頬にそっと優しく手のひらで触れる。

リースラートの涙に濡れた頬はしっとりしていてエルトレスも心が痛んだ。

後悔していなくとも悲しみは深い。

エルトレスに触れられその涙は想いと共に溢れる。

何度、想いも共に溢れて消えてくれと願ったか。

 

「…泣いていいの。リースちゃん」

 

ずっとこらえていたんでしょう?とエルトレスは涙に頬を濡らすリースラートに優しく語りかける。

その言葉がリースラートの傷に優しく響く。

リースラートは涙を流しエルトレスの腕の中に飛び込むと幼さの残る少女の腕の中で声を押し殺して泣いた。

 

『お前は…誰だ?』

『…姉様のおかげよ?やっと彼を手に入れたわ』

 

リースラートの負った傷は決して癒えない。

そして彼女が失った物はあまりにも大きい。

『神戒種』の力、彼の『リースラートの記憶』、彼との関係性、最後の肉親…。

残ったのは寿命で尽きる事の無い命と時の止まった体。

 

「私達と生きましょう?」

 

ふわりとエルトレスは優しくリースラートを抱き締める。

いまだ、声を押し殺して泣くリースラートは戸惑い涙に濡れた瞳でエルトレスを見つめた。

 

「…独りでいるよりも気はまぎれるから」

 

だから、少しでも楽しい思いをしましょう?とエルトレスは微笑む。

リースラートは一瞬、迷うと直ぐに答えを出しエルトレスの服を握りしめ。

 

「…だったらお願い…話して…」

 

「一緒に生きるなら隠さないで」とリースラートは消え入りそうに小さく呟く。

エルトレスは小さく頷いて口を開いた。


07.

「夜一族は今回、魔神をこの世界に喚び世界を壊そうとしている。」

 

エルトレスは目を瞑り静かに語り始める。

その表情は辛そうで。

どれだけ彼女が一族を信じていたか…リースラートは胸の痛みを感じた。

 

「…どうして…秩序を守る夜一族が…」

 

聡明で気高き最古の一族。

世界を巡る陰と陽の気の調和を保ち監視するのが彼ら夜一族だ。

その夜一族が陰の気を持つ魔神を喚び、今世界は調和を保てなくなり始めている。

何故…彼らが。

 

「……私が知るに夜一族は最古の夜一族を蘇らせるつもりじゃないかと思うの。陰の気で世界を満たし神子の一族の聖なる血さえあれば…」

 

『儀式は可能だ』

 

エルトレス(錐夜)が幼い頃、別れた母がエルトレスの中に残した記憶。

陰の気で世界を満たし、赤い月が夜空にのぼり…神子の一族の聖なる血を彼の体に注げば彼から消えた陰の気が赤い月に導かれ戻り聖なる血で再び目を開ける。

母は最後にそう残した。

 

「……私が知る事はそれだけなの。…最古の夜一族の者が何を目的にしているか解らない。」

 

エルトレスの別れた母は何か知っていた。

別れ際の母の瞳は涙に濡れていたのを微かに覚えてる。

だからこそ、母は自分を夜一族に置き去ったのだろう。

たった一つの記憶を残して。

 

『愛しい娘よ。どうか…』

 

エルトレスは目を開く。

視界に映るのは部屋とリースラート。

自分は独りでは無い。

 

「止めなきゃいけない。陰の気が満ちれば…世界は……」

 

エルトレスは真剣な表情をリースラートに向ける。

 

「…まずは亀裂の封印ね」

 

リースラートはエルトレスの真剣な表情に応える様に頷く。


08.

「があああぁっ!!」

 

ドシュリと鈍い音が街の人気の無い夜の路地裏に響く。

絶叫を上げ黒くかろうじて人の形をしている異形の『魔神』が音をたてて地面に倒れる。

 

「瑠璃。大丈夫か?」

 

やや癖のある漆黒の髪とアメジストの様な紫の瞳が神秘的な整った男らしい顔立ちの青年は柄も刃も黒い剣を片手に握り締める。

 

「…大丈夫。」

 

青年に聞かれ白いローブを纏いフードをすっぽりと顔の上を隠すほどに被った『瑠璃』と呼ばれた人物は息をつきながら答えた。

 

「どこかに休める場所があればいいんだが…」

 

青年は『瑠璃』を気遣い『瑠璃』を抱き寄せため息をつく。

見る者全てが敵に見える。

実際、仲間などいないが。

 

「…宵夜様に頼る事が出来たら…」

 

『瑠璃』は青年の腕の中で目を閉じ小さく呟く。

夜一族により『儀式の神子』とされ追われる日々。

昔から馴染みの宵夜に頼る事が出来れば少しでも状況は変わる。

 

「…瑠璃…」

 

青年は追われる恋人を抱き締め。

この世界に現れた魔神と儀式の贄とされ逃げて来た恋人。

青年の心には全ての元凶である夜一族への怒りが沸々と込み上げて来る。

 

「……?」

 

自宅で紅茶を飲みながら一息ついていた朔夜は窓を見つめた。

 

「…朔?」

「………声が聞こえた。」

 

懐かしい神子一族の少女の声。

朔夜はやや信じられなさそうな訝しげな表情を浮かべた。

何か起きそうな…そんな予感を朔夜は感じ始める。


09.

休息を終わらせ錐夜は独り街中を歩いていた。

人里の街中を来るのはこれが初めてでは無いからそう大して驚かない。

街中には家電店や大きなショッピングセンターなど建っており都会の雰囲気がする。

本来なら瞳を青に変えなければいけないが最近ではカラーコンタクトというものも出回っている為にさして瞳の色も変えない事にした。

結果、道行く人に見られ不快な思いをしたが。

 

(……。)

 

あても無くさ迷うように錐夜は歩く。

あの時、神音はこの街にいるような気がした。

だから、リースラートを朔夜に預け独り街に出て来た。

 

『錐夜…………』

 

キィンと一瞬、鋭い頭痛が起き呼ばれた気がして錐夜は振り返る。

 

「…神音…」

 

焦げ茶色の髪に黒い瞳。

錐夜の後ろに立つ少女は学生服を着ていていかにも人間だが錐夜には解る。

今、そこに立つ少女が神音だと。

 

「…私…は…」

 

少女は戸惑い震えた声で呟く。

金の髪、赤い目。

白昼夢のように過ぎたあの時の彼。

彼を知っている自分は人間では無いとこの時、初めて気がついた。

少女は人間では無い己を恐れ後退り振り返って走り出す。

 

(私は…。私…私―‥)

 

解らないのに。

何の記憶も無いのに感覚は当たり前のように覚えている。

それが怖い。

 

『悠木…!駄目!止まって』

 

脳裏に聞こえる『神音』の声に耳をかさず少女は走る足をやめず走る。


10.

無我夢中で走り少女が辿り着いたのは街中の外れにある広い空き地。

少女はそこでようやく立ち止まり息をつくと悲しそうな表情を浮かべる。

 

「…私は、人…じゃない」

 

漠然とした答え。

どこかの物語のように夢でそれは終わらないのだろうか。

己は夢を見ているのだと。

 

『ガア…アアァ』

 

突然、空き地の地面から黒い液体が広がる。

その液体から獣のような声が聞こえ少女は何が起こっているのか解らず目を見開く。

そして、黒い液体から何か生き物のようなものが生まれ始める。

黒い異形の生物。

 

『……グアアァ!!』

 

異形の生物は獣のような形をつくり少女に向かって走り出して来る。

異形の生物の頭には角のようなものが生えていて少女は恐怖に身動きすら取れなかった。

 

「神音!」

 

名前を呼ばれ少女はいきなり肩を抱かれ抱き寄せられる。

視界がぐらりと歪み気がついたらかなりの高さまで跳んでいた。

思わず悲鳴をあげそうになったが少女は悲鳴を飲みこむ。

 

「…大丈夫か…?」

 

少女を抱きかかえて高く跳躍し黒い異形の生物『魔神』からよけた錐夜は少女にそう聞くと少女はこくこくと頷く。

その反応に錐夜は満足そうに笑った。


11.

跳躍していた錐夜は地面に降り魔神を睨み、腕の中にいる神音である少女を地面に座らせる。

 

「この地へ現れた事を後悔しろ」

 

錐夜は吐き捨てるように言い片手をかざす。

すると手のひらから白く発光した光が現れそれはやがて刀へと姿を作る。

柄も鍔も刃すらも白銀に輝く美しい一ふりの刀。

錐夜はその刀を手に握ると一瞬で姿を消す。

 

ザシュリという肉を裂いた音共に音速で移動した錐夜は次々と魔神を斬る。

斬られた魔神は倒れ水のように地面に広がりやがて消えていく。

 

そんな通常では起こらない出来事に少女は視線を外す事が出来ず座り込んだまま錐夜と魔神の戦いを見ていた。

 

(体が…熱い…)

 

燃える様な体内の熱さ。

まるで体が戦えと訴えているよう…。

 

『悠木…』

 

脳裏に聞こえるもう一人の自分が心配そうな声で少女の名を呼ぶ。

 

(…神音…、私は誰………?)

 

導かれる様に街に足を運び導かれる様に目の前で戦う彼に出逢った。

初めて出逢う筈なのに懐かしさと切なさが少女を襲う。

記憶は無いのにでも彼を知っている。

 

(…私は…)

 

ドクン!と心臓が高く脈打つ。

キィンと冷たく鋭い頭痛。

目の前で戦う彼。

少女はぼんやりと霞がかかった思考で思い出し始めた。

 

(…夜一族…の)

 

あの日の母は泣いていた。

自分の記憶を消せば母の記憶も無くなる。

けれど記憶を封印しなければいずれ起こる戦いに少女が巻き込まれるから。

 

(神音…)

 

しかし、この時少女は前へと歩み始めていた。

己の大切な人を守る為に。


12.

「……神音」

 

気がついたら少女は刀を握り締め魔神を斬り裂いていた。

錐夜が驚いた表情を浮かべ少女を見つめる。

 

「………!」

 

少女はぼんやりとしたまるで意識が無いような表情を浮かべていたが我にかえり今現状、自分が何をしたのか見た瞬間目の前がぐらりと歪んだ。

何故…自分は刀を握り締め黒い異形の生物をこの手で…。

 

(…私…)

 

少女は黒い異形の生物『魔神』を斬った刀を握り締める。

綺麗な赤い刀。

ドクン!と心臓がまた高く脈打つ。

まるで体が訴えているようだ…『思い出せ』と。

 

「……神音……瞳が……」

 

普通の少女らしく黒かった少女の瞳。

しかし、今の少女の瞳は夜一族特有の美しい真紅の色を宿している。

錐夜は少女の様子を見て複雑そうな表情を浮かべた。

神音と出逢って起きながら…今更、神音の今の生活を壊したく無いと思い始め…。

 

「………」

 

少女は目を瞑る。

そしてゆっくりと瞼を開き。

落ち着いた表情で錐夜と向き合った。

 

「…お願いです。これ以上…悠木に関わらないで下さい。」

 

少女は真っ直ぐ錐夜を見つめそう小さく言った。

先ほどまでと口調も表情も違う。

錐夜は少女の変わり様に一瞬、驚いたが直ぐに落ち着いた表情を取り戻す。

 

「…解った…これ以上、神音には関わらない。」

 

食い下がるつもりも無い。

これ以上、少女を追いつめやっと逢えた少女の心を壊す必要も無い。

何せ目の前の少女は夜一族の記憶が無いのだ。

自分が何者かも解っていなかった。

 

「ありがとうございます。」

 

にこりと少女は微笑み手にしていた刀を消すと錐夜に一礼しそのまま振り返って歩き出していた。

残された錐夜はやや悲しみを含んだ表情を浮かべていたが辺りに魔神がいない事を確認すると塚本が用意してくれた家へ帰る事にした。

 

(…神音…昔の神音は…)

 

幼い頃の記憶が無いのは自分も同じだ。

曖昧で断片的な記憶しかなく幼い頃の神音が思い出せないのだ。

もやもやと霧が晴れないようなそんな感覚が錐夜にはあった。


13.

光と闇は対を成す。

 

対極の力は一つとなる事は無い。

 

だが、もし一つとなった時………

 

『……癒音。』

 

翡翠の髪が風にサラリとなびく。

両腕に小さな赤子を抱き抱えた小柄な女性は幼なじみの名を呼ぶ。

季節は春。

満開の桜が風に揺らされ桜吹雪を舞わせる。

 

『…止める…?』

 

癒音と呼ばれた女性は悲しそうな表情をして自分を呼び止め目の前に立つ小柄な幼なじみを見つめた。

人外の一族、『夜一族』。

『夜一族』は決して里を抜ける事が許されない。

里を抜けた者は掟上『死罪』。

 

『………お前が後悔しないなら止めない』

 

両腕に抱いた赤子の規則正しい寝息が聞こえる。

ざあぁっと強い風が吹いて桜吹雪が舞う。

叶う事ならこの悲しみも隠して。

 

『……翡翠』

『…癒音。見たのか?』

『……ええ。私のいない世界と…この子の未来を…』

 

夜一族の封印種の中には『夢の中で未来を見る能力』を持つ者が生まれる。

癒音は生まれた時からその力が強い。

 

『……癒音。』

『…翡翠。この子の事お願いね?』

 

癒音は昔と変わらない笑顔を見せる。

翡翠はその笑顔に胸が痛むのを感じ苦しかった。

 

『いいのか?それで…』

『…………いいの!この子が私の事を忘れてもこの子が幸せだったら…』

『癒音…。』

 

それが、どんなに辛いか…。

癒音のお腹の子は『癒音』を忘れる。

 

エルトレス………

 

お前も…

 


14.

「お母さん………?」

 

塚本に用意された家に帰りいつの間にか寝ていた錐夜は少女の姿で夢から現実へと目を醒ます。

母は何を願っていたのだろうか?

肝心な所で夢はいつも途切れる。

 

「………」

 

曖昧な記憶。

幼い頃の自分は何を想い誰と過ごしていたのか…。

 

「…逢いたいよ…お母さん」

 

この何年間、ずっと離れた母を恋しく思って来た。

…母親恋しい幼い頃に離された手。

母ではない人を母と呼ぶ辛さ。

 

『エルトレス…泣くな。お前が泣くと母にも移る』

 

優しい手。

優しい声。

優しい温もり。

 

『寒いか?エルトレス…母と寝ようか』

 

幼い頃の幸せな記憶にいつの間にか涙が流れていた。

思い出さなければ辛くないのにどうしても母を思い出す。

 

「…どうして…消してくれなかったの………?」

 

癒音のように。

どうして消してくれなかったのだろう。

優しくて幸せなあの記憶を…。

 

去るなら思い出なんて残さないで…。

 

エルトレスは部屋の中の窓の外を眺める。

しん、と静かな夜に浮かぶ月。

母は今もどこかで見ているのだろうか?

そう考えると胸の奥が切なさに震え再び瞳から涙をこぼさせる。


15.

月が夜空に浮かぶ真夜中の住宅街。

人々が寝静まった時間、狭い路地で朔夜は一人戦う。

 

「キリがないな~」

 

鬱陶しいと言わんばかりに声を上げて朔夜は刀を構え『魔神』と向き合っていた。

地面から液体のように広がった魔神は獣のような姿を作り徐々に数を増やしていく。

どうやらこの地は普通の土地に比べ魔神の出現率が異様に高いようだ。

 

(塚本さんが言ってた事もあながち嘘では無いようだ)

 

魔神の出現率を見るところこの地にはかなり大きな亀裂があるのだろう。

それを封印しなければこの街も危うい。

 

「…それなら早く消えてもらわないとね」

 

朔夜はにっと余裕の笑みを浮かべて魔神に向かって地を蹴る。

それを合図に十数体いる魔神も朔夜に向かって走り出す。

素早い魔神の攻撃は普通の人間ではまず太刀打ち出来ない。

しかし人では無く尚、剣術の達人である朔夜には大した問題では無いらしくその瞬速の剣技の前では魔神など恐れる相手では無い。

次々と魔神を倒し遂に朔夜は辺りの魔神を全て倒すと「ふう」とため息をつき刀を鞘にしまう。

そして心地よい夜風が朔夜の体の熱さを冷ますように吹く。

 

「………?」

 

優しい夜風が今懐かしい花の香りを漂わせてきて朔夜は首を傾げる。

何故、この地にあの巫女の香りが…?と朔夜は疑問に思いつつ辺りを見回す。

 

「…宵…夜…様?」

 

凛とした優しく懐かしい声が朔夜の耳にはっきり聞こえ朔夜は声のする方へ振り返った。


16.

幼い頃、白い花の花冠を作った。

柔らかい花の香り。

いつも作る花冠より格段に素敵だったから誰かに花冠貰って欲しくなって。

そして、その花冠を貰ってくれたのが澄んだ青の中に深い青を宿した瑠璃色の髪と瞳を持った女の子だった。

瑠璃の髪に白い花がよく映えて思わず見惚れてしまったのをよく覚えている。

女の子は貰った瞬間は恥ずかしそうに下を向いていたが小さく「ありがとう」と言ってくれた。

 

「…久しぶりだね。瑠璃」

 

幼い頃、白い花冠がよく似合っていた瑠璃色の長い髪は今、艶めいていてとても綺麗だ。

朔夜は脳裏の片隅でそう思い柔らかい微笑みを浮かべる。

あの頃よりお互い成長し大人になった。

知らなかった物事も知るようになり自分で考えて行動出来る。

 

「…まさか…こんな所で…」

 

お会いできるとは思ってもみなかった、と瑠璃は未だに驚きを隠せずにいる様だ。

 

「…俺もだよ、瑠璃…。兄上に逆らったんだね」

 

朔夜は少し悲しそうな表情を浮かべた。

閉じ込められる事は悲しいが逃げ出す事は過酷な道となる。

しかし、いつだって瑠璃は自由を欲しがっていたから。

 

「…私…恋をしたんです。」

 

瑠璃は柔らかい微笑みを浮かべた。

一目見れば瑠璃が幸せなんだと解るほど。

 

「俺よりもかっこいい?」

 

いたずらっ子のような笑みを瑠璃に向け朔夜は首を傾げて問う。

その問いに瑠璃はニッコリと微笑み。

 

「はい」

 

と明るく花のような笑顔で答えた。

「幸せです」とその笑顔が何よりの証拠だと朔夜は感じ朔夜は瑠璃の傍に寄り瑠璃の頭を撫でた。


17.

『瑠璃を贄に差し出せ、と?』

 

神子の一族に夜一族の来客が訪れていると知った瑠璃は朔夜では無いかと来客のもとへ訪ねようとした時。

瑠璃は聞いてはいけない話を聞いた。

 

『…簡単に言えばそうだよ。神子姫の力がどうしても欲しくて…ね』

 

幼い頃から瑠璃は神子一族の姫として何の力も持ってなかった。

誰も救えず何の力も持たない。

自分が神子姫かさえ疑わしいのに。

 

『瑠璃はどうなるのですか?』

 

神子一族の長老の声。

何の力も持ってない瑠璃が何故、贄に差し出せというのか。

 

『…さあ?死ぬんじゃない?』

 

夜一族の来客は楽しそうにそう言った。

瑠璃が死ぬと。

 

(嫌…、嫌…!)

 

聞きたくないそんな話。

背筋にひんやりとした空気が走り頭の中を白く染める。

ガタガタと震える体。

瑠璃は頭を抱えて叫びたくなる衝動にかられた。

気がついた時には瑠璃は無我夢中で走っていた。

怖くて無我夢中で…。

 

「…瑠璃…ごめん。気がつかなくて」

 

朔夜は瑠璃を抱き寄せて頭を撫でる。

瑠璃が生贄にされていたのも瑠璃が逃げ出したのも朔夜はつい最近知ったのだ。

しかし、何故瑠璃を生贄に選んだのかその意図が全く掴めず。

朔夜は錐夜達と共に一族を抜けていた。

 

「…いいえ、朔夜様…。朔夜様も一族を?」

「…ああ。今、夜一族がしてる事は許されない事だ。」

 

魔神を生み世界の均衡を崩し…。

均衡を保つ一族が均衡を崩す。

それは許されない事。

錐夜は一族の長は操られているも同然だと言っていた。

朔夜は拳を握り締める。

 

闇の先にある真実は未だ見つからない。


18.

「…そういえば瑠璃、君の恋人は?」

 

朔夜は何故瑠璃が1人でいるのか気になり辺りを見渡すがそれらしい人影は無い。

 

「私達…魔神に襲われてはぐれてしまったの」

 

彼は強いから大丈夫だとは思うけど…と瑠璃が呟く。

朔夜は一族を抜ける前にある噂を聞いていた。

瑠璃の恋人が魔神を統べる『王』だと。

どうやら本当らしいと朔夜は一人納得する。

それに先ほどから朔夜は気配を感じていた。

強い力を持った気配。

そしてすぐそこまでその気配は迫って来ている。

 

「瑠璃っ…!」

「!天河…」

 

まるで疾風の如く速さで闇から出て来た人影は朔夜と瑠璃の間に割ってはいる。

朔夜は「おっと~」と数歩、後方に下がる。

住宅地は狭いのが難点だ。

 

「貴様、瑠璃に触るな」

 

瑠璃の前に立ったのは外見はまだ10代後半の青年だ。

黒い髪に魔族の証とされる紫の瞳。

まだ幼さの残る整った顔立ちで彼はキッと目をつり上げて朔夜を睨んでいた。

夜一族の長であり兄である白夜に比べたら可愛い睨みつけだ。

朔夜は(か~わ~いい~)と失礼な事を思うも顔には出さずあくまでニッコリと微笑む。

 

「俺は瑠璃の知り合いの朔夜、君は?」

 

朔夜はそう言って相手に握手を求め片手を差し出したが相手にたたき落とされた。

その反応に正直、微笑ましいとか失礼な事を考えながら朔夜はヘラッと笑う。

それが相手の神経を逆撫でしてるとも知らずに。

 

「俺は天河だ!瑠璃に近づくな!!」

 

あくまで警戒心剥き出しな天河とその後ろでオドオドしている瑠璃。

朔夜が二人に出逢った瞬間だった。


19.

「…遅いですね朔夜さん。」

 

夜、魔神を捜して来ると言い朔夜は外へ出掛けかれこれ二時間ほど経っている。

自宅のリビングのソファーに座り静輝の淹れてくれた紅茶を飲みながらリースラートは心配そうに窓を見つめた。

 

「…大丈夫ですよ。リースさん」

 

ソファーに座りながら静輝は膝に頭を乗せ眠っている錐夜の頭を撫でる。

その二人の姿はまるで恋人同士の様でリースラートは思わず頬を赤く染めた。

 

「錐夜が起きないので何も起こってないと思います。」

 

にっこりと静輝は優しく笑う。

それは長い間、錐夜や朔夜と一緒にいた静輝にしかわからない事なのだろう。

リースラートは少し三人の絆が羨ましい。

 

「…静輝さんは錐夜や朔夜さんと強い絆があるのですね」

 

リースラートは大切な人との絆を断った。

否、それは果たして本当に自分が望んだ事だったのだろうか。

静輝と錐夜と朔夜に逢ってから特にそう思うようになった。

 

「…リースさん…失ったらまた、築けば良いのです」

 

一瞬、時が止まったように感じた。

リースラートは目を見開き静輝の目を見つめる。

 

「…錐夜から聞いたんですか?」

「…正確にはエルトレスからですが」

 

静輝は膝に頭を乗せ眠る錐夜の寝顔を見つめる。

幼い頃から幽閉され孤独に涙を流していた少女。

そして錐夜はエルトレスの寂しさの反動のような人格だ。

必死に寂しさを隠して意地をはって…。

 

『…私は…産まれちゃいけなかったのかなあ?』

 

寂しさと孤独から一度だけ聞いたエルトレスの弱音。

弱音なんてあまり言わないエルトレスが珍しく言った弱音。

静輝は今でも忘れる事が出来ない。


20.

大きな闇が世界を覆うとしている。

山奥に住まい沈黙を守り続けた夜一族。

彼らは守らねばならない世界の均衡を崩しやがて世界を……。

 

「う…あっ…」

 

ここは夜一族の里。

そして夜一族でもごく一部のものしか知らない場所。

一族を統べる長の屋敷の地下部屋だ。

 

「苦しそうだな、シルヴァリス」

 

愉快そうに長い銀の髪を揺らし夜一族を統治する長・白夜は冷たい地面に倒れ苦しそうに声を漏らすシルヴァリスを嘲笑う。

 

「シルヴァリス様…さ、私(わたくし)の血を飲んで…」

 

暗く濁ったエメラルドグリーンの瞳でシルヴァリスの銀の髪を見つめ愛しそうに撫でシルヴァリスの妻ウィルシェは微笑む。

 

『シルヴァリス!』

『まぁた、人の音痴の歌を盗み聞きしたわね?!』

 

違う…、とシルヴァリスはウィルシェの微笑みを見てそう感じた。

自分が望んだのはそんな微笑みじゃない。

 

「シルヴァリス様?」

 

シルヴァリスの異変に気づきウィルシェは首を傾げる。

サラリと流れるウィルシェのゆるやかなウェーブのかかった漆黒の長い髪。

だが、それは長年傍にいた恋人では無いと覚えていない筈の記憶が訴える。

 

「…ウィルシェ…白夜…何が目的でこんな事を…」

 

シルヴァリスはカリ…と爪で地面を引っ掻いた。

割れるように頭を襲う頭痛。

自由に動かない体。

地面に体を横たわらせシルヴァリスは目を瞑る。

 

『シルヴァリス…』

 

名前は思い出せない。

けれど、あの歌は覚えている。

お世辞でも上手いとは言えないあの歌声は支えだったから。

 

「……」

 

苦痛に体力の限界か。

シルヴァリスは目を瞑ると眠気が襲ってきて抵抗せずシルヴァリスは眠りに落ちた。


21.

『……寒くないか?リース』

 

そう言って肌寒い冬の夜にシルヴァリスはリースラートを懐に抱き寄せる。

その温もりが嬉しくて愛しくてリースラートはついつい甘えてしまう。

 

『大丈夫。シルの腕の中、暖かい』

 

誰も知らない異次元の城。

そこがシルヴァリスとリースラートの家だった。

シルヴァリスは仕事以外はそこにいてリースラートはシルヴァリスの帰りをいつも待っていた。

そして、お互いが望んだその温もりを永遠だと信じて。

しかし所詮、永遠などないのだとリースラートは思い知らされた。

不老不死の存在であるシルヴァリスにも終わりが訪れようとしていたからだ。

 

『シル…』

 

ある日、倒れ寝台に伏せったシルヴァリスの手を握りリースラートは涙を流した。

誰かの力を受けて『呪い』にシルヴァリスは体を蝕まれたのだ。

 

『リース…すまない』

 

シルヴァリスは荒い呼吸で肩を上下させて必死にリースラートに言葉を伝えようとする。

リースラートはもうそれ以上言わないで、とシルヴァリスの頬に触れ。

 

『あなたを死なせたりしないわ』

 

決意を秘めた瞳で語りかけリースラートはにっこりと花のような笑顔をシルヴァリスに向けた。

 

『…リー…』

 

シルヴァリスが言葉を紡ごうと口を開けた時、リースラートは静かに己の唇とシルヴァリスの唇を重ねた。

 

(たとえ、私の存在が…消えても)

 

リースラートはシルヴァリスと唇を重ね最愛の人に別れを告げた。

 

(助けるから)

 


22.

『シルヴァリス…』

 

朦朧とする意識の中シルヴァリスは少女の声を聞く。

自分を気遣う優しい声だ。

シルヴァリスは心地良いその声に不思議と懐かしさを感じた。

 

(…リース…)

 

名前なんて知らない筈なのに、今自然とその声の名前を呼んだ。

何故、解るのかとかそんなのは知らない。

ただ、当たり前のように名前が頭の中に浮かぶ。

 

(…リース、リース…)

 

シルヴァリスは繰り返し何度も心の中で唱える。

そうすれば、一歩一歩『リース』に近づける気がした。

しかし、シルヴァリスを絡め捕らえる糸は未だ、シルヴァリスを絡みとる。

逃がさないように…。

 

(リース…)

 

運命は未だ狂ったまま、シルヴァリスとリースラートを引き裂く。


23.

『いいのか?本当に』

 

人知れずの噂。

何かを代償に願いを叶えてくれるという仮面をつけた魔女。

リースラートはシルヴァリスを助けて欲しくて魔女の家を訪ねた。

そして、リースラートの話を聞いた魔女は願いの代償をリースラートに聞かせ首を傾げて問う。

 

『彼の死を曲げるということは君の命が消える可能性もあるんだよ?』

 

それでもいいの?と魔女はリースラートの瞳を見る。

瞳いっぱいに溜めた涙。

それを必死にこらえてリースラートは魔女の言葉に頷く。

 

『…構いません…。』

 

リースラートは今にも泣きそうな表情をしているが優しく微笑んで首を縦に振る。

 

『…そう、ならこうしようか。神戒種である君の力で彼にかけられた『呪い(まじない)を…君たち二人の絆に逸らそう。そうすれば二人とも生きれる』

 

恐らくこの提案はリースラートには酷なものだろう。

だが、ここでリースラートを死なせるには惜しい気がして魔女は残酷な囁きをリースラートにした。

リースラートはまだ死ぬべきでは無い。

 

『…ただ、呪い(まじない)を二人の絆に逸らすことで君と彼は永遠に結ばれない。それに彼の記憶から君は一切消えて存在すらしない事になる。』

 

永遠に結ばれない。

彼の記憶から自分は消える。

魔女の提案はリースラートにとって酷く心にのしかかって来た。

 

『…リースラート。彼以外の出逢いはまだある…それに、知った方が良い。真実と君の中にある『希望』を』

『…希望?』

 

魔女はリースラートの頭を撫でる。

真実は時に人を絶望に陥れる、けれども何時だって誰の中にも『希望』はあるから。

『生きなさい』と魔女が言うとリースラートは静かに頷いた。

…シルヴァリスの中から己を消す決意をしたのだ。


24.

どんな風にあなたと出逢えていたらあなたとの『愛』を絶たずにいれたのだろう。

残酷な運命にも人は希望を見いだせるのだろうか?

 

「どうすれば間違わずにいれたのでしょうか?」

 

リースラートはポツリと呟いた。

最愛の人から自分の存在は消え、愛し合っていた証は自分の中にしか無い。

リースラートが俯きがちにカップの中の紅茶を飲む。

 

「間違いだと思うからきっと間違いなんですよ」

 

リースラートの言葉に静輝はいつものニッコリとした笑顔で言った。

 

「その時の選択がリースさんの精一杯の選択だったのなら間違いでは無いと思いますよ?」

 

落ち着いて静輝は淡々とそう告げる。

『選択』は間違いでは無いと。

リースラートは静輝の言葉に目を見開いた。

 

「愛しい人達との絆を絶ち後悔もきっとあります。…ですがリースさんにとってそれが精一杯の選択なら間違いでは無いのです。」

 

少し悲しみを含んだ影のある静輝の表情。

穏やかな表情で静輝の膝に頭を預け眠る錐夜の髪を撫で静輝はきつく目を瞑る。

静輝の母は静輝を産んだことを後悔していた。

今も残る傷。

後悔の感情から心を壊した母は『忌み子』と静輝を疎い傷つけた。

母はそれでも自分の世界の全てだったから幼い静輝に母の暴力は悲しかった。

そんな幼い日々が変わったのは母が静輝に刃を向けた時。

自分の全ては母だったから、静輝は目を瞑り母の刃を待った。

けれど待っていた痛みは来ず、静輝が目を開いた時視界に映ったのは誰かの刃に倒れる母の姿。

母を殺したのは今現在、静輝の養父となり静輝の最愛の人である光夜。

 

「…リースさん、私は許されない人を愛しました。」

 

初めて自分と手を繋いでくれた人。

静輝の母を殺し静輝の父となった人。

決して許されるような関係では無い。

 

「…それでも私はその人を生涯愛するという選択をしたことに後悔はしてません」

 

互いが愛し合う事は決して許されない。

ならば密やかにこの生涯、あの人を想いたい。

静輝の言葉はリースラートの心を揺らしリースラートの瞳から涙が零れた。


25.

(…そうだったな。お前はあの人をいつも大切にしていた)

 

浅い眠りについていたまどろむ意識の中、錐夜は静輝がいつも養父を見ていた事を思い出す。

叶わぬ恋。

例え血の繋がりがなくとも自分を育ててくれた養父だ。

 

「…起きたのですか?錐夜」

 

長年、友人として共にいたせいか静輝は錐夜が目を瞑っていても意識が覚醒し始めているのにすぐ気づく。

ゆっくりと瞼を持ち上げて錐夜は口の端を吊り上げてニヤリと笑う。

 

「本当に報われないな。俺達」

 

意味深な言葉を錐夜は呟いた。

静輝はそれを聞くと苦笑いを浮かべ「本当ですねー」と呑気に言う。

 

「私は養父、朔夜は兄上様、錐夜は師匠。本当に報われないですね」

 

至ってのほほんとした柔らかい雰囲気で静輝は言うと若干、錐夜は呆れ気味に溜め息をついた。

 

「…え?!錐夜、ちゃんと好きな人いたの?!」

 

少々、俺様気質が見え隠れする錐夜にちゃんと好きな人がいた事に驚いてリースラートは声を上げる。

 

「…リース、お前は俺を何だと思ってたんだ」

 

錐夜は落ち込んでる素振りなど見せずに呟く。

言った張本人であるリースラートは「えへへ」と茶目っ気たっぷり笑うと錐夜は体を起こし髪をかきあげる。

 

「何か錐夜って見境無さそう…うわあっ」

 

冗談混じりにリースラートは笑いながら言いかけるといつの間にか傍に来ていた錐夜がリースラートの頬を手のひらで撫で顔を近づけ妖艶な笑みを浮かべていた。

 

「…錐夜?」

 

やや焦り気味にリースラートは錐夜を呼ぶと錐夜は綺麗な笑みを浮かべてリースラートの耳に囁く。

 

「……俺が見境ないか試すか?」

 

熱っぽいその囁きにリースラートは顔を真っ赤に染め錐夜から離れようと身を捩るが錐夜に腕を掴まれて引かれ…。

 

「ひゃあああぁぁっ!」

 

リースラートは家中に響きわたる程の悲鳴をあげた。


26.

「…くく」

 

本気にして叫んだリースラートに錐夜は意地悪く笑う。

その笑いに錐夜の冗談に気づいたリースラートは顔を真っ赤に染めた。

 

「ひどーい!からかったのね、錐夜」

 

頭から湯気を出しそうな勢いでリースラートは錐夜に向かって怒る。

 

「…ん?何だ、本当にシて欲しかったのか?」

 

怒るリースラートに余裕の笑みを見せ、錐夜は艶を含む声でリースラートに囁く。

錐夜の発言で更にリースラートは顔を真っ赤に染めて今にも卒倒しそうだ。

 

「こらこら、錐夜。あまりリースさんを苛めてはいけませんよ。」

 

リースラートが顔を真っ赤に染めて怒る姿を見て静輝が静かに錐夜をたしなめた。

 

「…静輝さん…」

 

穏やかな気性、柔らかな物腰。

静輝は本当に良い人だとリースラートはこの時、改めて感じた。

 

「リース、気をつけろ。静輝を良い人なんて思うな。」

 

リースラートが静輝に向ける尊敬の眼差しに気がついたのか錐夜は静輝のカップを勝手に手に取り中の紅茶を飲み干し一息ついた。

 

「………へ?」

 

錐夜の言葉を真に受けリースラートは首を傾げる。

あんなに穏やかな人が良い人では無い等…リースラートは錐夜の言葉の意味が解らず疑問符を頭の中に浮かべた。

 

「…今に解る」

 

疑問符を頭の中に浮かべるリースラートに錐夜は多くを語らず唯、一言を短く告げ紅茶のお代わりをカップに注ぐ。

…窓から見える夜の月はやはり美しい。

カップの紅茶の中に映る窓と月を見て錐夜は一人ため息をついた。


27.

「…朔夜、遅いですね~」

 

心配している素振りも見せずに静輝はのほほんと呟いた。

 

「…また口説いてるんじゃないのか…?」

 

錐夜はいつもの事だと朔夜の夜の癖は重々承知に言う。

『来るもの拒まず去るもの追わず』な錐夜とは違い朔夜は『恋する男』だ。

しかも、一夜限りが多い。

 

「まあ、そうだとしてもティータイムには帰って来て頂かないと…。昨日買ったケーキが台無しになりますから…錐夜。」

 

リビングの天井の明かりが静輝の眼鏡に反射してレンズが光る。

勿論、静輝の視線は錐夜へ。

 

「朔夜を迎えに言って来て下さい」

 

にっこりと綺麗な微笑みを浮かべて静輝は言う。

しかし、その目は錐夜に拒否権など与えていない。

 

「……」

 

面倒は嫌い、と錐夜はソファーにふんぞり返って隣りに座る静輝を見た。

 

「き・り・や」

 

誰もが魅了されるような綺麗な微笑みを浮かべ静輝は隣りにふんぞり返っている錐夜の腕を撫でる。

錐夜の服は着物に近い服で袖が長い。

服の上だろうが構わず静輝は錐夜を撫でる手の動きを止め錐夜の腕の肉を二本の指で摘み爪をたて静輝は容赦なく錐夜の腕の肉を抓られた。

 

「~~~~~~っ!!」

 

容赦なく静輝に抓られ錐夜はソファーの無地の紺色のカバーを握り締め痛みに耐え悲鳴にならない悲鳴をあげるがその間も静輝は容赦なく錐夜の腕の肉を抓る。

 

「意外とあまり肉がありませんね」

 

穏やかにそう言いつつも静輝はまだ錐夜の腕の肉を抓っている。

リースラートはこの時、心底錐夜に同情した。

 

「………行けばいいんだろう」

 

溜め息をついて錐夜は痛みに耐えながらそう呟く。

その時に静輝は優しい微笑みを浮かべて錐夜の腕を抓るのをやっと止めた。

先ほどまでギリギリと抓られていた腕のカ所を自分の手で撫でて痛みに耐えながら錐夜はソファーから立ち上がりフラフラした足取りでリビングから玄関へと向かう。

静輝とリースラートは錐夜の背中を見送りティータイムを続けるのだった。


28.

漆黒の夜の闇が静寂を連れて人々に眠りを与える時刻。

静寂に包まれ人通りの無い住宅街で金属音が響く。

夜の闇に浮かぶ月の光で刀の刃が煌めき。

 

「ちぃっ!」

 

ギィン!っと金属音を弾く音。

朔夜は舌打ちし愛用の刀を握り締め刀を振るい戦っていた。

相手は夜一族の刺客。

それもかなりの使い手だ。

恐らく刺客の狙いは瑠璃なのだろう。

 

「その真紅の瞳は我が一族の証。貴様、何ゆえに我らと敵対する?」

 

夜一族の刺客は低い声で朔夜に言い放つ。

黒いフードの外套を纏っているせいで刺客の顔は解らない。

朔夜は息一つ乱してないものの刺客の強さに刀を構えなおし、刺客をじっと見据え様子を伺う。

 

「お前達こそ解らないのか今、夜一族がしている事は……」

 

今、世界の陰陽のバランスは崩れ表の世界に陰が浸食し魔神が生まれている。

世界のバランスを崩したのは他ならない『夜一族』。

このままでは世界はバランスを崩して崩壊する。

朔夜は刀の柄を先ほどよりも強く握り締めた。

世界を見守り世界の秩序を守る為に『夜一族』は存在すると自分に教えたのは先代の長と現在の長。

なのに、今二人はこの『世界』を破壊しようとしている。

 

「…我らは新世界を創るのだ」

 

黒いフードの外套を纏った刺客が低い声で呟く。

そして、刺客は片手の拳を握り締め朔夜に襲いかかった。

 

「…!破魔 二連牙っ!!」

 

両手に一振りずつ刀の柄を握り締めていた朔夜は回転し振り向き様に二刀の刀を薙払い、鋭い風を巻き起こす。

 

「朔夜様っ!!」

 

瑠璃の悲鳴が突如、聞こえ朔夜は後ろを振り返った瞬間…。

静寂の夜の闇に鮮血が舞い散った。


29.

どこで間違えたのだろう。

 

大切な

 

大切な

 

私の一族…

 

間違わないで

 

私達は―‥

 

風がふわりと吹いて翡翠の髪を揺らす。

カチャリと金属同士の擦れる音。

胸元から取り出す丸い形の10cm程度のペンダント。

ペンダントはロケット式で蓋を開ければ写真が出て来る。

ペンダントに映っているのは愛しい人と最愛の子。

自分達の絆をしっかり受け継いだ子は明るい笑顔で幸せそうに映っている。

 

「ごめん、ごめんなさい…」

 

きっと愛しい子にとって自分は酷い母親だったのだろう。

ロケットの写真の中で笑う二人を見る度に心は揺れ涙が溢れる。

 

「…まだ、帰れない。でもいつか…」

 

帰るから…。

その想いが写真に映る二人には伝わらなくても…。

願わくば―‥。

 

「大きくなったんだろうな…エルトレス」

 

月の光は別々の場所にいる者達を優しく見守る。

いつか別れた互いの道を結ぶように。

絆を紡ぐように。


30.

大切に想うあの人もどこかで夜空を照らす月を見ているのだろうか?

住宅街の家の屋根を跳躍して渡った錐夜は夜風に長い金の髪を揺らしながら立ち止まり月を見つめた。

 

「………母上………」

 

幼い記憶が覚えているのは強くて気高い母親の後ろ姿。

弱さを一切見せない人である日突然母親は誰にも何も言わず、行方を絶った。

知っていたのだろうか…その時から。

一族の不穏な気配を。

 

『エルトレス…すまない』

 

別れ際、母は何度も錐夜であるエルトレスに謝った。

そこに一体、どんな意味が込められているのかは錐夜には解らない。

唯、普段弱さを見せる事の無い母が今にも泣きそうで辛そうな表情だったのは朧気な幼い記憶の中に鮮明に覚えている。

 

「……錐夜……?」

 

そして、不意に後ろから聞こえた声に錐夜は目を見開き振り返った。

朧気な幼い記憶の中に微かに残る少年。

背は高くのびて顔つきも少年と青年の中間にいるよう。

白銀の髪、一族の証の真紅の瞳。

あどけなさの残る端正な顔立ち。

幼い記憶の少年と自分の背後に立つ人物がしっかり重なるのを錐夜は感じた。

そう、彼の名は……

 

「………………神音?」

 


31.

重なり合う互いの真紅の瞳。

錐夜は目を見開き『神音』を見つめる。

解らないのは今ここに『神音』がいるならあの少女・悠木は………。

(……確かに感じた悠木にある神音の気配……どういうことだ?)

まさか…、と錐夜は神音を見つめた。

錐夜が出逢った悠木にも感じた神音の気配。

でも、ここに神音はいる。

 

真性封印種。

 

夜一族に分けられる種の一つである封印種。

術力と高い癒やしの力があり封印種の血にも強い再生力がある。

しかし、封印種は接近戦が不得意で打撃戦に弱い。

しかし、封印種には稀に『真性封印種』へと覚醒する者がいる。

『真性封印種』は男と女に自分の姿を自由に変える『性転換能力』を持ち戦闘能力も『封印種』が比較にならない程。

『真性封印種』は未だに未知な部分が多く夜一族でも『異端児』扱いされる事も少なくない。

 

「………久しぶり、錐夜」

 

白銀の髪が揺れる。

朧気な幼い記憶の中と変わらない微笑みを神音は浮かべて。

 

「真性封印種に覚醒してたのか?神音」

 

錐夜は神音と向き合う。

錐夜の母親も『真性封印種』で錐夜の母親の妹である神音の母親も『真性封印種』だった。

遺伝だろうか?

『真性封印種』への覚醒者が生きている者は錐夜含めて5人もいる。

500年に一度覚醒するかしないかの『真性封印種』。

 

「…覚醒したのは四歳の頃かな。ちょうど母さんが死んだ時だ。」

 

神音は少し困った表情をするが言葉を続ける。

 

「…錐夜が聞きたいのは『悠木(ひさぎ)』だろう?悠木は本当の俺の『人格』で俺は母さんの血で創られた夜一族の記憶を持った『神音の人格』。」

「ややこしいよな」と神音は苦笑いじみた表情を浮かべ指で自分の頬を掻く。

 

「…俺に悠木に関わるなと警告したのは『神音』だったのか」

 

錐夜は真っ直ぐ真剣な表情を浮かべて神音を見つめる。

神音はにこりと微笑んだ。


32.

もとは一つだった。

『悠木』と『神音』。

一つだった心が二つに離れたその代償はあまりにも高かった。

 

「ごめん、母さんの願いは悠木の『幸せ』だったから。悠木が今の日常を幸せだと思う限り俺は悠木が幸せになれる様に…」

 

母親『癒音(ゆのん)』の願いは我が子の幸せ。

我が子愛する親なら誰しもが願う事だろう。

だが、人格分離(じんかくぶんり)をし『悠木(ひさぎ)』の人格を守った所で『神音(かのん)』は幸せにはなれない。

…それでは結局幸せになんてなれないのに。

穏やかに笑い自己犠牲をする神音に錐夜は無性に腹が立った。

 

「本当に癒音さんはそんな事を願ったのか?」

 

どいつもこいつも自分勝手に自分を犠牲にする。

自分の父親といい母親といい…錐夜は唇を噛み締めた。

 

「錐夜……」

 

神音は驚いたのか目を見開き錐夜を見つめる。

『悠木』も『神音』も幸せにならなければいけないのだから。

 

「人格を一つに戻して戦いから身を引け、神音」

 

静寂の夜の闇の中で静かに紡がれる錐夜の言の葉。

昼間の悠木のあの様子だと神音との人格分離は完全にされていないのだろう悠木は神音と意識の同調を無意識に行っている。

それに魔神(まがみ)と戦えた悠木はきっと戦い方を忘れていない。

人格を一つに戻して戦いから身を引けば神音も悠木も静かに暮らせる。

戦いとは無縁の所にいた神音をこれ以上巻き込むわけにはいかない。

神音が『夜一族』といえど。


33.

「癒音(ゆのん)さんの願いはお前である悠木(ひさぎ)と悠木であるお前の幸せじゃないのか?」

 

錐夜の言葉に神音(かのん)は顔を俯かせ黙り込んだ。

錐夜に面と向かってそう言われるとは思わなかった。

自分はずっと影でいなければいけないと神音は思っていたから。

 

「……ありがとう、錐夜」

 

神音は顔を上げて錐夜に向かって笑う。

やっと自分の存在が認められた気がした。

影で存在を押し殺して戦うことを義務づけられた存在。

それが神音(おのれ)だと。

 

「礼を言われるような事はしてない」

 

錐夜はそう言って微かに笑い神音に背を向けた。

錐夜は行くのだろう、戦いへ。

 

「錐夜、無事を祈ってる」

 

神音は戦いへ向かう錐夜にそう言った。

誰もが幸せになって欲しい。

我が儘で甘い考えだが、それでも神音も錐夜も願わずにはいられない。

戦いへ向かう錐夜の後ろ姿を見送りながら神音は月に祈る。

甘い考えでも良い、これ以上悲しい犠牲を出したくない。

だからどうか……。

 

(本当にそれで良かったの?)

 

不意に神音の脳裏に聞こえた声は悠木の声だ。

神音はビクリと体を震わせて驚いた。

何故、悠木の意識が起きているのか。

普段神音が表に出ている時、悠木の意識は眠りに入っており神音が表に出ている時の記憶が無い筈なのに。

 

(神音、私たちがもとは一つなら一つに戻って…エルトレスを助けてあげよう)

 

それが例え、母の願いでも望みでも無くとも。

それでも、大切な人がいるから…。


34.

月がぼんやりと夜空に浮かぶ。

夜の闇に静寂とした住宅街の建物に跳び移りながら錐夜は朔夜を捜す。

酷く嫌な予感がする。

そして大抵、錐夜の予感は外れない。

そういう所もやはり強い力を持った両親から受け継いだものだと錐夜は力を嫌う反面、二人の子だという嬉しさもあった。

 

(…朔)

 

急がねば、と錐夜は足を進める。

辺りにざわつく殺気。

距離がまだ遠いがかなりの使い手か錐夜の背中に悪寒が走る。

しかし、それは朔夜の殺気では無い。

 

(…しかし、この殺気…どこかで…)

 

感じたことがある。

錐夜が感じたことがあるというなら恐らく夜一族の者の殺気だ。

 

黒い漆黒の長い髪…

 

真紅の瞳…

 

錐夜の脳裏に浮かぶ一人の姿。

そんな筈はないと錐夜は思うも足を止めるわけには行かず足を進め夜の住宅街の中朔夜を捜す。

これが宿命ならなんて皮肉なのか。

錐夜は額に滲む汗を手の甲で拭い拳を握り締める。

 

月夜は美しくそして二人の悲しい邂逅を促す。

35.

錐夜は目を疑わずにはいられなかった。

ひっそりと静かな住宅街のとある路地。

地面に横たわる朔夜と………。

 

「……………そんな」

 

血塗れの刀を手にした朔夜を傷つけた人物は朔夜の傍に立ち錐夜に気がついたのか錐夜の方を見た。

月光に照らされた彼の顔を見て錐夜は震えた声で唖然と呟く。

 

(どうして…師匠…)

 

行って来い、と肩を押してくれた最愛の人。

その人が朔夜に傷を負わせた。

悲しみから錐夜は少女エルトレスの姿に戻り最愛の恩師であり愛しい人…黒夜を見つめる。

 

「…月夜様の新世界に刃向かう者は斬り捨てる」

 

月光に照らされた黒夜の刀の刃が冷たい光を放つ。

そして、刀の刃の切っ先はエルトレスに向けられエルトレスは混乱した頭の中で必死に状況を整理しようと思考を巡らす。

朔夜は倒れ、自分は錐夜からエルトレスに戻ってしまい、黒夜が朔夜に傷を負わせ自分に刃を向けている。

黒夜の発した『月夜様の新世界』。

しかし、許してはいけない気がした。

『新世界』も…。

朔夜に傷を負わせた事も。

 

今、この状況を打開するには逃げるか戦うしかない。

エルトレスは迷う事無く構えを取り、戦う決意をした。

 

「失礼します、師匠!」

 

エルトレスは拳で黒夜に向けられた刀の切っ先を弾き素早い動きで黒夜の懐に入る。

しかし黒夜はすぐさま刀の柄の持ち方を変えて切っ先を黒夜自身に向けてエルトレスを貫こうとした。

エルトレスが避ければその刀の切っ先は黒夜の胸を貫く。

 

「…師匠!!」

 

ドシュリと刀が貫く音が静寂の夜の闇に響いた。


36.

逃れられない宿命の糸。

だが、もし自分が死ぬ事になってもお前は生きて幸せに…。

お前には輝いた未来が沢山あるのだから…。

私はお前を宿命の糸から守ろう。

愛しいエルトレス…。

 

血が地面に滴り落ちるその音にようやく黒夜は我を取り戻した。

視界に映ったのは黒夜の刀に肩を貫かれ黒夜にしがみついているエルトレスの姿。

 

「…何故、避けなかった」

 

震える喉から黒夜は声を振り絞って呟いた。

エルトレス程の技量があればあの程度見切れない訳がない。

エルトレスは避けず黒夜の刀にわざと肩を貫かれたのだ。

 

「師匠に…当たるから」

 

刀に貫かれた肩の傷が痛むのかエルトレスは今にも消え入りそうな小さな声で言った。

 

「エルトレス…敵は全て倒せと教えた筈だ」

 

黒夜はエルトレスの小さな体を抱き締める。

小さな少女の体が震えているのが解った。

無理も無い、エルトレスは錐夜の時でさえ普段強がっているが本当は実戦経験が少ない。

 

「……愛している、エルトレス。私だけの…」

 

黒夜はそう言って目を細めるとエルトレスを突き飛ばす。

エルトレスの肩に刺さっていた黒夜の刀はいつの間にか消えていた。

地面に投げ出されエルトレスは苦痛に顔を歪め黒夜を見つめた。

 

「………師匠!」

 

止めて欲しい。

最愛のあなたと戦うなんて嫌だ、とエルトレスは制止の意味を込めて彼を呼ぶ。

だが、黒夜は空気に漂う光の粒を手の平で集めると光の粒は徐々に刀へと形を創りだす。

月光に照らされた白銀の刃。

 

「月夜様の命令だ、エルトレス」

 

そう言って黒夜は刀を手にし構えを取る。

美しい黒夜の真紅の瞳には迷いなんてなかった。

本気でエルトレスを殺そうとしているのだ。

エルトレスは肩に怪我を負いとても格闘技など使えそうに無い。

残っているのは足技。

黒夜とエルトレスは対峙し互いの隙を伺う。


37.

どうして…?

疑問と悲しみが込み上げて来る。

エルトレスの目の前でエルトレスを殺そうと刀を構えている黒夜。

エルトレスは何だか黒夜が不安定な精神になっているような気がした。

 

「…黒夜師匠…」

 

エルトレスは黒夜に呼びかける様に呟く。

しかし黒夜は無表情なままエルトレスを殺そうと隙を伺っている。

あの日、リースラートを連れて夜一族を抜けるのに『行って来い』と黒夜はエルトレスの背中を押した。

そして、エルトレスは必ず黒夜のもとに帰ると約束した。

 

「……」

 

黒夜は無言無表情のまま突如、消える。

否、消えたというよりは瞬速の速さでエルトレスの背後に回ったのだ。

エルトレスは突如感じた背後の黒夜の気配に目を見開き前方に倒れるように黒夜に薙払われた刀の刃を避ける。

その時、刀の刃が掠り腕から僅かに出血した。

やはり、刀を使う黒夜に対して体術は分が悪い。

黒夜の懐に入る事さえ出来ない。

エルトレスがこの場を凌ぐ方法は錐夜に戻る以外ない。

エルトレスは目を瞑り錐夜に姿を変えようとした時、黒夜の刀の刃が真っ直ぐエルトレスに降り下ろされた。

 

「……っ!エルトレス!!」

 

突然、エルトレスは呼ばれエルトレスの肩を誰かが掴みエルトレスは黒夜より少し離れた場所へと移動していた。

黒夜の刀の刃はエルトレスに当たる事なく降り下ろされ地面に切っ先がつく。

エルトレスは自分の肩を抱いている人物を見る。

月光に照らされた白銀の髪に真紅の瞳。

青年と少年の中間にあるような顔立ち。

それはエルトレスが幸せになって欲しい平穏に暮らして欲しいと願った『神音(かのん)』だった。

 

「……神音……」

 

震える声でエルトレスは言葉を紡ぎ神音の名を呼ぶと神音はニッコリと笑ってくれた。


38.

『師匠、ごめんなさい』

 

日が暮れた森の中、幼いエルトレスの手を繋ぎ黒夜は夜一族の里への帰路についていた。

そして、森を歩く中エルトレスは遠慮がちな小さな声で黒夜に謝る。

何に対しての謝罪か解らず黒夜は首を傾げてエルトレスに『謝られるような事あったか?』と問えばエルトレスは俯いて黒夜と繋ぐ手の力を込めた。

 

『……今日…師匠は恋人さんとのお出かけの日って聞いたの…。ごめんなさい、私知らずに師匠に…』

 

エルトレスはこの時10歳の子供だったが黒夜は既に成人を迎えていた。

成人を迎えており尚且つ顔立ちの整った黒夜に恋人がいない方が不思議。

しかし、黒夜はどうしても本気になれず恋人を放ってエルトレスと一緒にいた。

そんな状態だからむしろ恋人というより遊びの関係なのだろう。

黒夜は柔らかい微笑みを浮かべる。

 

『良いんだよ、エルト。お前の気にする事じゃない』

 

恋人といっても彼女には既に他の人がいる。

彼女との繋がりを無理矢理繋ぐ気は無い黒夜はエルトレスから『お散歩したい』という願いを断る理由はなかった。

それに少しでも忌み子と言われ傷ついて来たエルトレスの傍にいてやりたかったのがある。

 

『………師匠、私…師匠の傍にずっといる。師匠とどんなに離れても……』

 

エルトレスがこの時、どうしてそんな事を言ったのか黒夜には解らなかったが強い意志の光を真紅の瞳に宿してエルトレスは言葉を紡ぐ。

 

『師匠の傍に帰って来るから』

 


39.

想いが溢れる。

好き、好き、愛してる―‥

 

ガキィン!と金属と金属がぶつかり合う音が辺りに響く。

静まり返った住宅街のとある路地で戦う神音と黒夜。

怪我を負ったエルトレスは二人の戦いを見てる事しか出来ない。

 

「………っ!」

 

明らかな経験の差。

長い年月戦い続けた黒夜と未だ産まれて間もない神音では経験と力量の差は見るに明らかだ。

神音は表情を歪めどう、この戦いを脱するか思考を巡らす。

刀と刀がぶつかり合う音。

しかし、神音は黒夜の攻撃を防ぐのに精一杯だ。

神音と悠木に人格分離し神音の力は抑制され悠木と一つに成らねば力を元に戻せない。

 

(…経験と力量の差に俺は悠木とまだ人格分離している状態だ…不利過ぎる)

 

負けは見るに明らか。

しかし、それでも退くわけには行かない。

神音は刀を振るい黒夜の攻撃を防ぐ。

 

「戦いの最中に考え事とは随分余裕だな」

 

歴戦の猛者といってもいいだろう。

黒夜は神音の隙を逃さず、一瞬の速さで神音の懐に入ると刀を振るう。

 

(しまった……!)

 

しかし、神音が黒夜の刀に斬られる前に神音は誰かに肩を押され地面に投げ出され軽く体を打った。

 

「……錐夜っ!!」

 

神音の肩を押したのは錐夜の姿になったエルトレスだ。

錐夜は顔を苦痛に歪め倒れる。

黒夜は目を見開き錐夜を見つめたまま動かない。

しかし、小さな声で「エルトレス」と呼んでいたのを神音は聞いた気がした。

 

「う……!ぐ…!」

 

ガクリと地面に膝をつき黒夜は頭を抱えて苦しみ出す。

神音には何が起きたのか解らなかったが黒夜の状態は少しおかしい。

どこか情緒不安定な気さえする。

そして突然、上から声が聞こえた。

 

「…やっぽー!って何だこりゃ。怪我人多いな―‥」

 


40.

みのかかった銀の髪。

夜一族の証である真紅の瞳。

整った男前な顔立ちに眼鏡をかけたその人物は住宅街の一軒家の屋根に立ちながら煙草をくわえた口元をにいっと吊り上げた。

そして、その人物の後ろには眉を寄せた静輝と困った表情を浮かべているリースラートが立っている。

 

(誰…………?)

 

神音に新たに現れた三人の人物達を警戒し武器を構えた。

斬られた錐夜の出血が思ったより多い。

早く手当てしなければ錐夜の命が危ないと神音は錐夜を守ろうと傍に行き三人を睨みつける。

 

「…見かけない方ですね。ですが、ご安心を…私達は錐夜の友人です。」

 

警戒心むき出しの神音に向かって静輝はニコリと微笑む。

夜一族の里に神音は行った事が無い為に錐夜以外と神音は面識が無い。

錐夜はちょくちょく錐夜の実の母親と共に里を抜け出し幼かった神音と会っていた為、面識があるのだ。

だから神音自身が夜一族といっても人間社会で暮らして来た為、人外の一族の知識はほとんど無い。

 

「…大丈夫だ…神音、あの人…達は俺の…知り合いだ」

 

神音を庇って斬られた傷が痛み出血で貧血を起こしている頭の中で錐夜は必死に神音に言葉を紡ぐ。

 

「わかった」

 

神音は錐夜の言葉で警戒を解く。

錐夜は安堵しグッと地面についた手に力を込め上体を起こし未だ苦しむ黒夜を見る。

 

(師匠……)

 

誰よりも愛しい人。

寡黙であまり喋らない人だがいつだってエルトレスの傍にいてくれた。

エルトレスである錐夜は傷が痛む体にも関わらず立ち上がり重い足取りで黒夜の傍に歩み寄る。

 

「俺は…あなたの傍に帰ります。どんなに離れても」

 

錐夜は地面に膝をついて黒夜を抱き締めた。

そしてようやく錐夜の腕の中にいる黒夜は落ち着きを取り戻し錐夜は逆に黒夜の腕の中に崩れる様に体に力をなくし意識を失う。

 

どんなに遠く離れても

最後にはあなたの傍に

必ず帰るから―‥

 


41.

「錐夜…早く…私を殺しにオイデ」

 

夜一族のとある一室で独り彼は呟く。

まるで籠の鳥の様に今の彼は捕らわれたまま。

だが、錐夜とリースラートを逃がし彼は錐夜(エルトレス)なら黒夜を救えると信じ黒夜を『刺客』として向かわせ準備を進める。

『夜一族の解放』の準備を…。

 

「翠(すい)…最期だけは私に逢いに来テ…」

 

そして、私の最期を看取って欲しい…と彼は毎晩の様に月に願う。

狂ってしまった夜一族。

今まで一族を守って来た彼には耐えられない。

大切な一族が闇の底に堕ちてしまうのが。

責任は彼にもあるのだ。

 

「翠…私の愛しい…」

 

恋人として過ごした時間は余りに少なく彼が気がついた時には翠はもう彼の傍にはいなかった。

仕方がなかった翠と違う人と通じてしまったからだから翠は離れた…自分の傍を。

彼は部屋の隅の鍵のついた棚の方へ歩いて行き鍵を開け棚の戸を開ける。

棚の奥にひっそりと置いてある美しい宝石箱。

彼は宝石箱を手に取り宝石箱の蓋を開ける。

宝石箱の中には一粒の翡翠が入っていてそれは雫の形をしたペンダント。

 

「翡翠」

 

彼の『翡翠』が行方を絶つ数日前に彼に贈られた宝石。

別れの挨拶だったのだろう、と彼は納得していた。

これが贈られた時、もう既に『翡翠』は行方を絶った後だった。

 

「……翠……」

 

せめて最期を迎える前にもう一度…。